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インタビュー

一般社団法人 WEF会長、尾原蓉子さんインタビュー。日本のファッションビジネス草創期に業界を牽引。 そして大変革期の今、伝えたいこと。

日本で初めて「ファッションビジネス」という概念を紹介し、ファッション産業の発展と人材育成に尽力してこられた尾原蓉子さん。これまでの歩みと、ファッション産業の未来への想いをお伺いしました。

世の中に役立つ仕事をしてキャリアを築きたい 私の母は英文のタイピストをしていました。おしゃれで綺麗な人でしたので、かっこいいなと憧れていましたね。自分も世の中のためになる仕事をしたいと思っていました。高校生の時に、AFS交換学生としてアメリカのミネソタに留学したのですが、その時に目の当たりにした光景にも大きな刺激を受けました。そこには、自分の得意なことを活かしながら仕事をする女性たちの姿があったのです。当時、日本で働く女性といえば、お化粧もせずに髪を振り乱して、男言葉を使って…というイメージでした。そうでなければやっていけない時代だったんです。でもアメリカで働く女性たちを見て、女らしさを捨てないでもこんなに生き生き働けるんだ、と感銘を受けましたね。

帰国後は東京大学へ進み、卒業後、旭化成に入社しました。まだほとんどの民間企業が四大卒の女性を採用していなかった時代でしたが、偶然が重なったんです。当時、旭化成は独自に開発した「カシミロン」というアクリル繊維をどのように売ればいいか、試行錯誤していました。その中で、「この繊維が売れるかどうかは、男にはよくわからない‟流行“というものが大きく影響するらしい」ということがわかってきた。そこで、「おしゃれが好きで、エンジニアと営業マンと外部のデザイナーを束ねて商品開発ができる女性を1人採ってほしい」と販売部から人事部に要請していたんだそうです。そんなとき、たまたま会社に訪問したのが私。実は、旭化成に在籍していた大学の先輩に「どうして御社は女性を採らないのですか」と文句を言いに行ったのです。「本当に仕事がしたいなら、こういう話があるよ」と紹介され、責ある仕事を任せてもらえるのなら是非やってみたいと、お受けしました。

入社直後から販売部の中の開発担当として働きました。業界誌を片っ端から購読してレポートをまとめたり、何度もセミナーに出かけたり、新しい商品も次から次へと開発して、仕事はとても面白かったですよ。ピューロンというアクリル長繊維の糸を売り込みにいったらデザイナーの三宅一生さんが気に入ってくださって、パリコレに使われたこともありました。
でも、同時に入社した男性たちがどんどん出世していくのに対して、私の職階はずっと変わらないんですね。3年ほど経つと「男性にできないようなことをしないと女性が活躍するのは難しい」と思うようになりました。それで、アメリカでマーチャンダイジングやスタイリングなどの新しい考え方を勉強しようと、こっそりフルブライト奨学生の試験を受けたんです。合格して上司に退職の意思を伝えると、ありがたいことに「休職して行けばいい」と言ってくれて。会社に籍を置いた状態で米国F.I.T(ニューヨーク州立ファッション工科大学)に留学することになりました。

「ファッションビジネス」という概念に出会って F.I.Tでは、目から鱗の連続でした。一番初めに教わったのが、「ファッションはビジネスである」ということでした。
「どんなに、有名ブランドのニュールックが素晴らしいと話題になっていても、小売りのレジを通ったかどうか、誰かがそれにお金を払ったかどうかが大事だ」というんです。つまり、ファッションは多くの人に受け入れられ、ビジネスとして成り立たなければ、次の仕入れもできない、生地を買うことも、人を雇うこともできないんだ、ということなんですね。また、向こうでは売れない物はどんどん値下げして処分していきます。「マークダウンラックに何がかかっているかを注意深く見なさい。雑誌や業界誌が取り上げる流行の色・生地・デザインと、実際に消費者が買っているものの違いを見極めなければ、ビジネスパーソンとして成功はできない」と教えられました。
既製服もまだ浸透していなかった当時の日本では、‟ファッション“と‟ビジネス“が結びつくなんて想像できませんでした。華やかで憧れの世界だと思っていたファッションが、実はものすごくドロドロとした現実的なビジネスなんだと知ったことは、とても大きなショックでしたね。

カシミロン発売10周年の記念事業のアイデアを求められたとき、私は恩師が書いた本、『Inside the Fashion Business』の翻訳出版を提案しました。私がF.I.Tで衝撃を受けた「ファッションビジネス」という概念を、日本に紹介したいと思ったのです。上司の反応は「面白そうだけど、ファッションビジネスとは一体何だ」というものでした。出版が決まった後にも、「これを記念事業として出版して旭化成が恥をかくことはないか、本当に大丈夫か」と取締役から最終確認がきていると、上司から連絡がありました。
三日三晩、考えましたね。リスクを恐れて「止めておいたほうが無難です」と答えるのは簡単です。でも、私の個人的な不安から止めてしまっていいのか。当時、韓国や台湾の台頭で日本の繊維産業は下降線をたどっていましたから、既製服市場が大きくならなければ日本のファッション産業に未来はないと考えていました。相談できる人はいません、自分で決めるしかないのです。
三日後、私は一言「恥をかくことはありません」と返事をしました。
もしこの本が売れなかったり、評判が悪かったら、自分が日本中にこの本に書いてあることを説いてまわろうという覚悟の上でした。今振り返っても、これが私のキャリアの中で最大のコミットメントでしたね。そうして1968年、『ファッションビジネスの世界』(東洋経済新報社)が出版されました。

日本のファッション産業に今、立ちはだかる壁 本は多くの方に贈呈され、また一般に市販もされて、大きな反響をいただきました。当時、流通革命の大旋風を起こしていたダイエー創業者の中内功さんが「これはすごい本だ、本を配るだけでなく業界のためにセミナーを開くべきだ」と言ってくださり、その後28年間続いた「旭化成FITセミナー」をはじめるきっかけにもなりました。
セミナーをスタートしたのは1970年。アメリカからF.I.Tの講師を何人も呼び、同時通訳での講義を4週間行うのですから、コストも相当かかる画期的な試みでしたね。当時は「ファッションとは」といった定義だけで1時間半ほどの授業がありました。パターンメイキングも、マーケティングも、スタイリングも、すべて新しい概念でしたから、業界全体がものすごく勉強をして世界にも目を向けるようになり、高度成長も重なって70年代日本のアパレル業界は非常に成長しました。企画を担当していた私には、とてもやりがいのある仕事でした。

ただ、私は「70年代は失われた10年」だと思っているんです。一般の人までがおしゃれを楽しむようになり、それぞれの会社が儲けることはできましたが、この期間に日本のアパレル業界は、時間をかけて自社でデザイナーやブランドを大切に育て、土台を築くということをしなかったんですね。世界中のブランドとライセンス契約を結び、いわば人からの借り物でてっとり早くビジネスを展開していたのです。80年代に登場したDCブランドが育つような支援もろくにしないままバブル崩壊を迎え、「安くなければ売れない」価格破壊の時代に突入しました。さらに21世紀に入ってからは、テクノロジーの目覚ましい発達などによってパラダイムが大きく変容しました。消費者がスマートフォンで簡単に情報を得られるようになるなんて、誰も想像していませんでしたよね。それなのに従来の成功体験から抜け出せない日本のアパレル業界は、今、周回遅れどころか2周3周遅れているといっても過言ではありません。
この現実に私は強い危機感を抱き、「このままではキャリアを終えられない」という気持ちで4年を費やして『Fashion Business 創造する未来』という本を書き上げました。今手を打てば、まだ間に合うはずです。日本には才能ある若いクリエイターがたくさんいますし、日本独自の自然との共生を大切にする文化や、その中で育まれてきた感性・技術力、優れた素材などを活用できれば、未来への可能性はきっと開けると思うのです。本の執筆には苦労しました。ファッション・ビジネスの本質は変化ですから、「動く標的」を追いながら書くわけで、何度も書き直しもしました。ぜひ多くの方にこの本を読んでいただき、ファッションビジネスの大変革期にある今、何をすべきか考えていただければと思いますね。

国際人として大切なことは、「自分を知り、相手を知ること」 ビジネス活動がさらにグローバル化しているにも関わらず、海外に行く若い人が減っていると言われていますよね。「ネットで調べればわかる」と思うのかもしれませんが、空気もにおいも、食べているものも違うし、ものの考え方も全然違い、それは絶対に行って体験しなければわかりません。国際的に通用するビジネスマンになるためには、バーチャルでわかったような気にならず、とにかく外国へ行ってみてほしいですね。

私自身、留学してアメリカ人ならではの考え方に触れたことで、多くの気づきや学びがありました。
何より驚いたのは、アメリカ人のプロフェッショナリズムです。浅く広くではなく、自分の強みを見つけたら専門性を深く突き詰め、努力をするんですね。細かく専門分野が確立されていて、それぞれにプロと呼ばれる人たちがしのぎを削っている、キャリアアップのための努力を惜しまないところを見て、私もこんな風になりたいと思いましたね。
また、人と違うことは良いことだという考え方も新鮮でした。高校生で留学していたとき、私の服装を見た友人から毎日のように「That's so different!」と言われました。「変わってるね」とけなされたと思い悩んでいると、ホームステイ先の妹が「それは褒め言葉なのよ」と教えてくれたんです。高校生のときはよくわからなかったけれど、F.I.Tでその意味がよくわかりました。人と同じことをしている限りはそこで序列をつけられてしまう、だからいかにして人と違うことをして自分独自の足跡を残すかということを、とても重要視しているんです。

どんな国にも歴史があり、生活習慣があり、気候・風土の違いがあり、独自の文化や考え方があります。私が海外で仕事をするときは、それらをリスペクトするということをいつも大切にしています。また、自分の国のこと、歴史、文化を語れるようにしておくことも重要です。なぜなら、それができなければ世界では一人前として見てもらえないからです。

企業の社会的責任は、事業そのもので果たす時代に 今後のファッションビジネスにおいて、サステナブルという観点はますます重要になるでしょうね。本にも書きましたが、これからは企業活動、事業活動自体が地球に負荷をかけないようにしなくてはならないという考え方が大きな潮流の1つです。
2015年、国連がSDGs(Sustainable Development Goals)を発表しました。日本語では「持続可能な開発目標」と言われていますね。「貧困をなくそう」とか、「安全な水とトイレを世界中に」といった17つの目標を掲げて、去年に対して今年どうなったかという進展を評価するものです。仕事の方法、ビジネスの取り組みにおいて、できるだけ地球や人に負担をかけないようにして、倫理的で清く正しく、真善美の世界に近づこうというものなんですね。
これまでCSR (corporate social responsibility)では、木を植えたり、メセナでコンサートホールを作ったりと、本業の稼ぎとは別で世の中ためになることをしようとするものでした。それも素晴らしいことではあるけれど、これからは、本業そのものが地球へのダメージを極力少なくし、また社会の問題解決に役立つものでなくてはいけません。

そういう意味でベンベルグはコットンリンターを原料として、もともとゴミになって廃棄されるものを使っていますよね。糸にするプロセスでも、非常に努力して地球への負荷の軽減を実現しています。これから私がベンベルグに期待したいのは、使い終わった後のベンベルグを、どうすればフルリサイクルできるかということですね。それができるようになると、本当に胸を張って国連の17つの目標を達成したと言えるのではないでしょうか。旭化成にいた人間として、私はベンベルグをとても誇りに思っています。今後もますます磨きをかけていってほしいですね。

尾原 蓉子

一般社団法人 ウィメンズ・エンパワメント・イン・ファッション会長(代表理事)
金沢市立美術工芸大学大学院 名誉客員教授
ハリウッド大学院大学 特任教授 
学校法人 海陽学園評議員
(株)AOKIホールディングス 社外取締役
経済産業省 ファッション政策懇談会座長
元 IFI ビジネススクール学長

東京大学卒。米国F.I.T(ニューヨーク州立Fashion Institute of Technology)卒。ハーバード・ビジネススクールAMP(Advanced Management Program)卒。米国ウッドベリー大学 名誉芸術博士。
2009年、米国F.I.Tから「生涯功労大賞」、毎日新聞から「毎日ファッション大賞・鯨岡阿美子賞」、2003年にハーバード・ビジネススクール日本同窓会・「ビジネスマン/ウーマン・オブ ザイヤー」賞を、日産自動車社長カルロス・ゴーン氏とともに受賞。

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