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暮らしのコツ

上層住宅は「床」の時代へ

鍛治さん 床と土間の庶民住居の歴史は、竪穴式住居の時代から江戸時代以降まで続くわけですね。

小沢さん そうですね。実際には地方の農村には昭和時代にも残ってました。GHQの肝いりで戦後に農村住宅の改善運動が起こるのですが、家事労働の軽減のために土間をなくそうという考えが農家まで広がるのは戦後ですからね。

鍛治さん 土間は現代住宅でも見直されていますよね。

小沢さん こうした改善運動がなかったら、今も残っていたかも知れないですね。その一方で作業のための土間スペースを別にして、床だけで構成される住宅が上層住宅の典型となり、寝殿造や書院造につながっていくわけです。

法隆寺伝法堂外観/『週刊朝日百科 日本の国宝 奈良/法隆寺2』(朝日新聞社、1997年) 法隆寺伝法堂前身建物の復原図(平面と立面、図版提供/小沢朝江)

小沢さん これは「法隆寺伝法堂」で、現存する住宅でもっとも古いものの一つです。現在はお堂として使われていますが、かつては聖武天皇の妃の橘三千代の住宅で、それが法隆寺に献納されて仏堂に改造されたものです。その前の住宅だった頃の姿は痕跡から分かっていて、こんな平面でした。

小沢さん 平面上はすべて床ですが、大きく二つに分かれていることが重要で、平面図の右側半分くらいは壁に取り囲まれた閉鎖的な空間で、その手前の左側は戸がすべて開けられる開放的な空間になっています。その先にはベランダのような空間があって外の空間に近い。閉鎖と開放の二つの空間によるカタチはこの後の時代もずっと続きますし、寝る場所の歴史にも関わってきます。

鍛治さん この建物の平面もそうなっていますね。「大嘗宮」……。

大嘗宮(平成元年、写真提供/小沢朝江) 大嘗宮起こし絵図/宮内庁蔵、『週刊朝日百科 日本の歴史42古代王権 祭と政』(朝日新聞社、1987年)

小沢さん そうですね。「大嘗宮」は天皇の即位の儀式のたびにつくられてきた建物で、最近の「大嘗宮」でも古い形式がちゃんと残っているわけです。これが現在の天皇の即位の際につくられた「大嘗宮」です。

小沢さん これは江戸時代につくられた「大嘗宮」の起こし絵図、紙の模型です。左側が閉鎖的に見えますが、これは御簾を下ろしている様子で実際には開放的な空間です。これに対して右側は三方が壁に囲まれた閉鎖的な空間になっています。天皇の即位の時にここで何が行われるかは公にはされていませんが、わずかに残された儀式の図から空間の使い方を読み取ると、閉鎖的な部屋には寝所があることが分かります。儀式としての睡眠です。ここで神様と夜を過ごすわけですね。御簾が下げられた左の空間はこの儀式を見届ける人々が座する場所です。つまり、手前が外来者が入る開放的な昼の空間で、奥は閉鎖的な夜の空間。「法隆寺伝法堂」の二つの空間の構成と同じです。いわばパブリック空間とプライベート空間ですね。そして、寝室を閉鎖的につくることは、これ以後、ず~っと続くわけです。この「大嘗宮」では、閉鎖的な空間は「むろ」と呼ばれ、手前は「どう」と呼ばれています。漢字では室と堂です。

鍛治さん 氷室とか麹室など、今でも閉鎖的な空間としての「室」の意味は残っていますよね。

小沢さん そうですね。土を掘った洞窟のような空間は今でも「室」と呼ばれますから。人は時代によって変わっていくのに、言葉だけは暮らしの中に残っていくというのは面白いですよね。

── 「大嘗宮」の平面だけを見ると現在の単身者向けのワンルームマンションみたいですけど、実際は二間×五間(約3.6×9m、約37㎡)という大きな空間なんですね。

小沢さん さらにこの「堂」と「室」の周りに庇をまわして空間を広げて、真ん中に閉鎖的な空間を設ける。これが寝殿造の始まりで、これはその代表的な例である「東三条殿寝殿」の永久3年(1115年)の儀式の様子を記録した平面で、江戸時代に写されたものです。

『類従雑要抄』延宝5年写本・東三条殿、陽明文庫蔵

小沢さん 柱の間の数を数えると南北五間、東西九間。真ん中の二間×六間の細長い長方形の空間が「母屋(もや)」と呼ばれ、この四周が幅一間の庇で囲まれていて、その外側(北と西)に設けられているのは「孫庇」です。全体的には開放的なのに、母屋の東端に壁と建具に囲まれた二間×二間の閉鎖的な空間があります。ここが「塗籠(ぬりごめ)」です(この「塗籠」の左上にも「塗籠」の文字が見えます。「東三条殿寝殿」は「塗籠」が二つある特殊な例です)。ここがもともとは寝室として使われていた部屋です。でも日本は夏が暑いですから、ここでずっと寝ていたかというとそうではないようで、後々は寝る場所は北庇の私的な空間に移ります。ただ、真ん中に核のように閉鎖的な空間を置くこうしたスタイルは鎌倉時代の初めまで残ります。

鍛治さん 家の真ん中に閉鎖的な寝室が……。

小沢さん こうした寝殿造の様子を伝えるのが「京都御所」ですね。

京都御所清涼殿の平面。塗籠は夜御殿と呼ばれる

小沢さん 現在の京都御所は江戸時代の末期、安政年間に建てられたもので、そのひとつ前は約60年前の寛政年間に建てられたものでした。この寛政の時に御所を平安時代の姿に戻そうと、江戸時代の学者が古い資料を元に復元したんです。現在残る安政の御所の中心部も、その平安リバイバルの建物に倣って建てられています。御所の中心は「紫宸殿」ですが、こちらは儀式のための建物で、天皇が暮らすための空間は平安時代から「清涼殿」が充てられました。「清涼殿」では「塗籠」のことを「よるのおとど=夜御殿」と呼んでいますね。中は狭いけれど、切妻屋根の真ん中当たりなので天井はいちばん高くて、深くて狭い井戸の底のような感じです。ここに畳が敷かれて、ここで寝ていたわけですね。四隅に掛行灯を吊るして、鬼門の方角には魔除けのお札が貼られています。これが現存する建物で「塗籠」の空間を体験できる数少ないところなのですが、なかなか入ることはできないですね。

鍛治さん 魔除けのお札があるなんて、いかにも夜の空間ですね

小沢さん 寝ている枕元に魔除けの刀を置くこともありました。当時の絵巻物を見るとよく刀が置かれていますよ。

鍛治さん 睡眠中は政敵だけじゃなくて、いろいろなものから身を護らなければならなかったんですね。

「病草紙 小法師の幻覚を生ずる男」香雪美術館蔵

── こ、これは何ですか。

小沢さん ああ、これは「病草紙」の一部で、寝ている人の頭の回りに小法師がたくさん湧いいて、頭を突かれている絵です。たぶん現代でいうと心身症ですね(笑)。

鍛治さん うわ~、現代に通じるものがありますよね(笑)。

小沢さん そうですね。魔除けの刀が左手の壁に掛けられているのが分かりますね。こちらは納戸構えの閉鎖的な寝室を描いたものと言われています。

「慕帰絵詞」8巻、本願寺蔵。『続日本の絵巻9 慕帰絵詞』(中央公論社、1990年)

鍛治さん 鴨居が低くて潜って入るような入り口になっている。

小沢さん ええ、猿落しと呼ばれる鍵もつけられていました。睡眠は人がいちばん無防備になる状態ですから、外敵から身を守るため他人が入りにくいように工夫されていたんです。入り口の高さを抑えるだけではなくて框の部分を持ち上げて、足を挙げて身を屈めて窮屈な姿勢で入るようにした。それが書院造の帳台構の原型とされています。他人が入りづらく、家の奥まった場所、窓がまったくない部分に寝室を設ける考え方は、その後もずっと継承されていきます。夜に使う部屋だから窓がなくてもいいというわけではなく、そこがいちばん安心できる場所だったんでしょうね。

── これで室町時代くらいでしょうか。本当は一気に進めたいところですが、続きは次の回で。

掲載している図版、資料は東海大学工学部建築学科、小沢朝江教授よりお借りしたものです。 禁無断転用

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