
古い建築を前にすると、私たちはつい「特別なもの」としてみてしまいがちである。特に、法隆寺や二条城といった有名な建築は、国宝・重要文化財に指定されていて、絵画や彫刻と同じ「芸術品」のように感じてしまう。
しかし建築は、絵画や彫刻とは異なり、形やデザインだけが評価の対象となる単なる「芸術品」ではない。建築にとって大切なのは、誰が、誰のために、何のために作ったのか、どう使われたのかを考えることである。中でも住宅は、そこで人がどんな生活を送り、どんな条件によって平面やデザインが決定されたのか、それが最も明確に示される。例えば、二条城二の丸御殿を「住宅」だと思って見る人は少ないが、実際にはここで誰かが生活し、何らかの要望のもとに平面やデザインが決定されたはずである(本書序文「日本住宅のあゆみ」より、小沢朝江著)。
目次
日本の住宅のあゆみ
住まいの使い分け 小沢朝江
住まいの変貌 水沼淑子
住まいの現代史 水沼淑子


小沢朝江 おざわ・あさえ ● 工学博士。東海大学工学部建築学科教授。1986年、東京理科大学工学部建築学科卒業。1988年、神奈川大学大学院修士課程修了。湘北短期大学生活学科専任講師・助教授を経て、2002年より東海大学工学部建築学科助教授に。2007年より現職。1999年、日本建築学会奨励賞受賞。小田原城址整備委員会委員、台東区朝倉彫塑館改修工事検討委員会委員、東京都景観審議会委員、台東区景観審議会委員などを務める。著書に『インテリアと生活文化の歴史』(共著、産業調査会、1993)、『名城シリーズ11 二条城』(共著、学習研究社、1996)、『日本住居史』(共著、吉川弘文館、2006)、『明治の皇室建築―国家が求めた“和風”像』(歴史文化ライブラリー、吉川弘文館、2008)など。

鍛治恵 かじ・めぐみ ● NPO睡眠文化研究会事務局長・睡眠文化研究家・睡眠改善インストラクター。寝具メーカー、ロフテーの「快眠スタジオ」での睡眠文化の調査研究業務を経て、睡眠文化研究所の設立にともない研究所に異動。睡眠文化調査研究や睡眠文化研究企画立案、調査研究やシンポジウムのコーディネーションを行なう。2009年ロフテーを退社しフリーに。2010年NPO睡眠文化研究会を立ち上げる。立教大学兼任講師。京都大学非常勤講師。立教大学ほかでNPOのメンバーとともに「睡眠文化」について講義を行う。 http://sleepculture.net/
将軍はどこで寝ていたのか
── 前回から引き続き、小沢朝江さんに寝室の歴史のお話をうかがいます。
小沢朝江さん(以下・小沢さん) 今回は書院造から一気に明治の建物まで行きますよ!
鍛治さん よろしくお願いします。
小沢さん 寝殿造は、母屋の北側のラインを境に、南側は公的、北側は私的な用途に使い分けるというルールがありました。寝る場所も、塗籠から出た後は、やはり北庇に設けられました。中世になって、母屋と庇で成り立っていたこの寝殿造の構造が崩壊しても、北が私的、南が公的というルールは残り、寝室は建物の北側に置かれました。これは教王護国寺(東寺)の「観智院客殿」です。
鍛治さん 書院造の原型のようなイメージかな。
小沢さん その通りですね。書院造では「床の間」や「違棚」など「座敷飾」と呼ぶ四つの要素を主室に備えることが特徴で、この「帳台構」もそのひとつです。この観智院客殿でも座敷飾りはちゃんと四つあって、「床の間」と「違棚」は南側の接客空間にありますが、「付書院」と「帳台構」は北側のプライベートな空間のほうにあって、「帳台構」は装飾や意匠としてではなく、寝室の入り口として設けられています。
鍛治さん 付書院や帳台構も単なる飾りではなくて、実用から装飾へ転じていったわけですね。
小沢さん 「床」と「違棚」はこの四つの中では比較的早い時代に接客の空間に定着するのですが、「付書院」や「帳台構」はやや遅れて接客空間に採り入れられていきます。「帳台構」はいちばん最後で、もともと極めてプライベートな空間の入り口ですから接客の晴れ晴れしい場所に置くようなものではなかったんですよね。ただ、材が太くて見栄えが良いので、やがて装飾として接客空間に出てくるようになるわけです。そのきっかけは、接客空間と生活空間で構成されていた建物から、生活空間が独立し、接客専用の建物が独立したときといわれていて、寝室は分離されたけれど「帳台構」だけが残されて、一つの室内にまとまることで書院造が完成するわけです。
鍛治さん 「二条城の二の丸御殿白書院」にも「帳台の間」がありますが、ここで将軍が寝ていたわけではないですよね。
小沢さん ここでいう「帳台の間」は将軍の控え室のようなものですね。大広間で対面の時に人が並んで待っていて、将軍は「御出座~」というと、「帳台構」の狭い出入り口から登場するわけです。
鍛治さん 本来、将軍は「帳台構」から登場するはずなのに、時代劇では廊下を歩いて来ますよね。
小沢さん それは間違っていますよね。本当は「帳台構」をよいしょと乗り越えて出てくるんです。対面の時は冠りものも着けてますから、袴の足を持ち上げて頭を下げて登場するのは格好悪い。見栄えが悪いので時代劇では採り上げられないのでしょうね。「帳台の間」は武者隠しのように、警護の武士が控えていた場所だったという方もいますが、部屋の装飾のランクが高いですから家臣が入る空間とは思えないですね。
鍛治さん では将軍はどこで寝ていたのでしょうか。
小沢さん 白書院全体が日常生活の建物なんですが、蚊帳を吊る金具がある部屋を探すと寝ていた部屋が分かるんです。私は古い建物を見る時に蚊帳吊り金具があるところを探すのですが、白書院は金具があったのは一部屋だけでした。将軍はそこで寝ていたんですね。
鍛治さん この部屋全体に蚊帳を吊るなんて、そうとう大きな蚊帳ですよね。
小沢さん そうですね。金具は二段になっていて上には滑車がついています。蚊帳を引き上げて下の金具に固定するわけです。「京都御所天皇常御殿」では真ん中に「御帳台」と呼ぶ寝室があります。ここで最後に寝た方は明治天皇で、明治天皇は虎が好きだったので、即位のときにここだけ障壁画を虎の絵に描き直させました。この部屋にも蚊帳吊り金具があります。
鍛治さん いちばんプライベートな空間の襖の絵柄を好みで虎の絵に替えるなんて、今の時代のインテリアの設えにも通じるものがありますよね。プライベート空間には自分の好きなものだけを置く、みたいな。
小沢さん 天皇や将軍の希望は「おこのみ」といいますが、その自由度は低くて、あまり聞き入れてもらえませんでした。江戸城もそうですが障壁画には、どういう用途の部屋にどんな絵を描くか厳密なルールがあって、明治天皇が唯一「おこのみ」を聞いてもらえたのが御帳台だったのでしょう。
小沢さん この時代、上流階級では夫と妻は同じ建物には住まない。後々もそうなんですが、家の当主と妻はパーソナルな空間を持つこと原則で、御殿ごと男女別々に分けました。で、今晩は夫が妻と寝るというときには、基本的には妻が夫の寝室を訪ねるのではなく、夫が女性の寝室に通うわけです。それ以外は別々に寝ている。「京都御所」でも天皇と皇后の御殿は「天皇常御殿」と「皇后常御殿」で分かれていて、天皇は100mくらいの距離を通っていたことになりますね。男女の寝室はずっと別々だったんです。明治まではそうですね。
鍛治さん 女性だけが暮らすエリアができるわけですね。
小沢さん 江戸城の場合、その女性の空間が大奥ですね。将軍が一人で眠るのは中奥にある「御休息の間」で、奥方と寝る場合は大奥の部屋を使います。上層住宅では妻と夫の寝室が分かれていたんですね。