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暮らしのコツ

「東宮御所(現在の迎賓館赤坂離宮)」1階の平面図。30は皇太子嘉仁親王(後の大正天皇)、40は皇太子妃(後の貞明皇后)の寝室。男女の寝室が同形同大になった。(小沢朝江著『明治の皇室建築―国家が求めた“和風”像』、吉川弘文館、2008年)。

小沢さん 一気に20世紀になるんですが、「東宮御所(現在の迎賓館赤坂離宮)」(1909年)でも寝室が東宮寝室と東宮妃寝室にキッパリ分けられています。でもかつては、男性の部屋は大きく、女性の部屋は小さく造られていて、明らかに空間の大きさに差があった。「東宮御所」では左右対称、同形同大ですから歴史的に見ると画期的なことなんですよね。

小沢さん この「東宮御所」は「贅沢すぎる」という明治天皇の意見で皇太子は実際には住まなかったんですよ。

鍛治さん ええええ。もったいない。

小沢さん でもここで東宮夫妻が暮らすことを想定して家具や調度は納められていて、その完成写真が残っています。それを眺めてみると東宮の寝室はベッドは一台ですが、東宮妃の寝室にはベッドが二台納められてます。男性が女性の部屋に通うのは明治までしっかり残っていたことがわかります。

「東宮御所(現在の迎賓館赤坂離宮)」内、皇太子嘉仁親王の寝室 「東宮御所(現在の迎賓館赤坂離宮)」内、皇太子妃の寝室。(写真はいずれも小沢朝江著
『明治の皇室建築―国家が求めた“和風”像』より)。

鍛治さん 夫婦寝室の登場は西洋の家からの影響なんでしょうか。

小沢さん そうですね。西洋のベッドルームの翻案だと思います。大正時代頃から上層住宅に夫婦寝室が登場していますね。

── 庶民の寝室はどうなっていたんですか。

小沢さん 近代の都市部の戸建て住宅は、江戸時代の武家住宅が基本になっているといわれています。ここでは、当主はいちばん良い部屋に一人で寝て、それ以外の家族が一部屋で寝るのが一般的ですね。

鍛治さん 夫婦が単位じゃないかったですからね。当主とその他家族という関係です。夫婦の寝室というのは近代までなかったはずです。

小沢さん 庶民住宅に対しては、大正時代に住宅改善運動が起こります。そのスローガンの一つが「接客本意から家族本意へ」というもので、接客のために使っていたスペースを、普段の家族のために使いましょうという考え方が推奨されて、当主中心の部屋の使い方も変っていきました。

附記によれば,夫婦・子供1人・女中1入を想定し,「2階16帖 を8帖つつに仕切り,一方に子供の書斎及び寝室とし,他方は主婦の寝室に充つること」もできるもので,坪当り建築費60円程が考えられていた。「大正時代の住宅改良と居間中心形住宅樣式の成立」(北海道大學工學部研究報告・木村徳国)

── 人間は何百年も前から今と同じように寝ていたと思っているかもしれませんが。

小沢さん 今、当たり前のことは過去では当たり前ではないってことです。

鍛治さん 時代だけではなく地域差もあって、例えば同じアジアでも台湾は寝室は基本的にダブルベッドでシングルは珍しいですからね。某流通企業が中東に出店するので、現地のバイヤーが日本のお店が訪れた様子をテレビ番組で見たんですよ。中東のバイヤーは、日本でよく売れているシングルサイズの脚付きマットレスを紹介されて、「これがベッド? 私たちはこんなベッドでは寝ない」と驚くわけです。それを見て「?」の商品開発のスタッフが、逆に中東の人々の暮らしを訪ねるのですが、そこで、どの家庭を訪問しても寝室にシングルベッドはなかったことを知るわけですね。ダブルベッドが基本なんです。寝室はプライベート度が高いですから、誰がどんな部屋でどんなふうに寝ているかは、自分の眠り方や寝具選びが「当たり前」と考えがちですよね。でも実際には文化によっても個人個人でもそうとう違いがあると思いますよ。

── 日本人は布団のサイズが寝るサイズのイメージですもんね。シングルで十分。

小沢さん 畳の大きさは寝た姿勢での大きさですから。かつては座るところと寝るところに畳を置いていましたから、半間×一間の基準寸法は人が寝るサイズだと言われています。それが基準になって布団や建具のサイズも導きだされている。

鍛治さん 日本人の暮らしのサイズは座る動作と寝る動作からスタートしているわけですね。

小沢さん 以前、長崎の出島の「オランダ商館」の復原に携わったことがあって、その時に家具も揃えたのですが、復原の元にしようとした18世紀のベッドは、この寸法ではオランダ人の身長では横たわれないよね、という長さだったんですよ。長さ1.5mくらいしかない。調べてみると彼らは、現在のように体を伸ばして寝ていたわけではないんですね。

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── 以前、ユトレヒトにある「シュレーダー邸」(1924年、ヘリット・リートフェルト設計)を見学した時に、格納式のベッドがあまりに小さいので驚いたことがありました。

鍛治さん 寒冷地には床や壁を温める構造の住宅は多いですよね。北欧の壁式ペチカは壁が温かいので、それが普及していた地域ではそこに身を委ね、壁に寄りかかって寝る姿勢が生まれたそうです。

小沢さん なるほど。寝る姿勢や寝る場所のあり方はさまざまですね。

鍛治さん 眠るための道具も一様ではないです。

小沢さん 天皇にとっても眠りは大切なことだったようで、近代化の儀式として、明治天皇は20歳の年から10年をかけて日本全国を行脚したのですが、各地で行在所(あんざいしょ)に宿泊する時は、従者が愛用の御寝具御寝台一式などなどを運び込んでいたそうです。

鍛治さん 豊臣秀吉は御寝台で寝ていたという記録が残っています。あの時代からベッドで寝ていたようですね。

小沢さん そうですか。天皇家の御寝台はかなり昔からあって、洋風のベッドの影響というより、高めに設えられた御帳台から来ているのだと思います。

── 日本でいち早くベッドを積極的に購入したのは娼家のおやじだったと、アメリカの建築家で評論家のバーナード・ルドフスキーは「さあ、横になって食べよう」(奥野卓司・多田道太郎訳、鹿島出版会1985年刊)で書いています。ベッドは西洋的快楽を得るための特別な装置として日本に導入され、ベッドに横たわることが非日常的空間を体験することでもあったと……。

鍛治さん 確かに日本の寝具の発展は遊郭とは無関係ではないですよ。

小沢さん そうですね。お布団の最高級品は遊郭で使われていたし、枕も遊郭で発展したと言われていますからね。

鍛治さん 話は戻りますけど寝殿造や「京都御所」のお話に登場した、母屋の中心に設けられた閉鎖的な空間「塗籠」が、高温多湿の日本の気候風土と合わないのに、かつては寝室として使われていたというのも、やはり睡眠中、自分の身を守ることがいちばんだったということなんでしょうか。

小沢さん 夜は恐ろしい時間だったのでしょう。自分が眠っている時間への恐怖があったと思います。

鍛治さん 今の快眠は「身の安全」が前提としてありますからね。

小沢さん 私は住居のもともとの原点は夜のための場だと思うんです。夜、身を守るための場所です。それがやがて昼の生活のための住居になると、夜のための場所もまた閉鎖的な場所から少しずつ解かれていった。それでも最後まで身を守る空間として残ったのが「眠る場所」だったのでしょう。

鍛治さん なるほど。

小沢さん これは民俗学の分野になりますが、民家では寝室のあり方は隠居の制度とも関わりがあるんですよ。家の当主がどこで寝ていて、若夫婦がどこで寝ているか。当主夫婦が寝室を若夫婦に明け渡すことが世代交代という考え方があるんです。隠居にもいろんなカタチがあって、同じ家で暮らすこともあれば、敷地内の別棟で暮らす家隠居のスタイル。その一方で、村隠居と言って、住居から出て村のどこかに家を設けるカタチもあったと……。

鍛治さん あ、それは今もあるかも……。

小沢さん 二世帯住宅でそれぞれの世帯が寝る場所をどう決めるか、とか、ちょっと今っぽいですよね。四国ではわざわざ隠居家を建てるんですが、それは床が低くてバリアフリーっぽい。調べてみると面白そうで、多世帯居住と寝室について卒論書かない? って毎年学生に言うんですけどね、なかなか……。

鍛治さん でも確かに面白そうですよね。二世帯住宅でどう寝ているか、どう寝ていたか……。

小沢さん 多世帯で暮らしていた住宅をどう住まい分けていたか、民俗学や社会学的な視点で調査研究するのは面白いと思いますよ。これからの多世代同居住宅の開発にも生かされるはずです。二世帯住宅でおなじみの旭化成ホームズさんにもぜひお勧めくださいね。

鍛治さん はい。今日はどうもありがとうございました。

── 知らないことばかりで本当に勉強になりました。ありがとうございました。

掲載している図版、資料は東海大学工学部建築学科、小沢朝江教授よりお借りしたものです。 禁無断転用

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