column

暮らしのコツ

眠りの本棚 第八話

『間取り』で楽しむ住宅読本

眠くならない本:日本住居史

「近代はわれわれの住まいと生活が急速に変化してきた時代である。その変容の過程は、多くの人が住まいを求めて自由に描いてきた「間取り」に残されている。(中略)
これから、間取りは機能毎の〈部屋〉という考え方を捨て去り、大きく変わろうとする気配が感じられる。よく考えれば、住み手は多様だ。しかも夫婦と子どもという形態以外の家族も増えた。そもそも同性者による夫婦も現れる時代だ。そうした多様な住み手が、どのような生活を求めているのか、その答えが間取りを大きく変える。そうした時代をわれわれは迎えている」。(本文より抜粋)
明治から大正、昭和期に行われた住まいの変化をたどり、これからの住まいの間取りを考える一冊。家族が眠る空間「寝室」は、はたしてどのように変ってきたのか。今回は「寝室」にスポットを当ててお話をうかがいます。

「『間取り』で楽しむ住宅読本」

2005年 光文社新書 刊

内田青蔵 著  定価:740円+税

目次

序章

住まい全体が見えなくなった

第1章

忘れられた美風

第2章

誰もいなくなった部屋

第3章

いま最も大切な空間

第4章

男の空間、女の空間はどこに消えた

第5章

大人が入れない

第6章

眠るだけの場所になっていないか

第7章

ひとりになれる最後の逃げ場

終章

「部屋」という考え方を捨てる
profile
内田青蔵

内田青蔵 うちだ・せいぞう ● 建築学者、建築史家。神奈川大学工学部建築学科教授。工学博士。1953年秋田県生まれ。神奈川大学工学部建築学科卒業、1983年、東京工業大学大学院工学研究科建築学専攻博士課程満期退学。文化女子大学造形学部教授、埼玉大学教育学部教授を経て2009年より現職。専門は近代建築史と近代住宅史。2004年、日本生活学会今和次郎賞受賞、2012年、日本生活文化史学会賞受賞。著作に「あめりか屋商品住宅」(星雲社)、「日本の近代住宅」(鹿島出版会)、「雑誌『住宅』全52巻」(柏書房)、「同潤会に学べ」(王国社)「建築工芸画鑑 全8巻」(柏書房)、「消えたモダン東京」「学び舎拝見」「お屋敷拝見」(以上、河出書房新社)など。

鍛治恵

鍛治恵 かじ・めぐみ ● NPO睡眠文化研究会事務局長・睡眠文化研究家・睡眠改善インストラクター。寝具メーカー、ロフテーの「快眠スタジオ」での睡眠文化の調査研究業務を経て、睡眠文化研究所の設立にともない研究所に異動。睡眠文化調査研究や睡眠文化研究企画立案、調査研究やシンポジウムのコーディネーションを行なう。2009年ロフテーを退社しフリーに。2010年NPO睡眠文化研究会を立ち上げる。立教大学兼任講師。京都大学非常勤講師。立教大学ほかでNPOのメンバーとともに「睡眠文化」について講義を行う。 http://sleepculture.net/

キャプション

大正以降の寝室とは?

── 前回はM. W. ヴォーリズ*¹の山荘のお話で終わりましたが、このヴォーリズの設計で大正14(1925)年に完成した「お茶の水文化アパートメント」*²には折り畳み式ベッドが使われていますね。

内田さん ええ、日本伝統の空間の有効利用を、洋風生活に応用できる家具として、折り畳み式ベッドは当時の流行でもあったんですよ。大正から昭和にかけては、西洋の家具をそのまま使うのではなく、日本人の体型に合わせた洋風家具が登場しますから、創意工夫の中で収納ベッドのような提案も行われるようになります。

鍛治さん 大正時代に既に折り畳み式ベッドがあったんですね。

内田さん 大正期には洋風生活の熱が高まっていましたが、1923年の関東大震災で一時その熱が冷めてしまうんです。そして、震災復興期を迎えると、実際の生活に即した現実的に使える機能的な住まいをつくろうと実用主義的な家が提案されるようになる。コンパクトで、洋風一辺倒ではない、日本的な空間活用を採り入れた住宅がつくられるようになります。そんな動きの中で、効率良く暮らすため、夜しか使わない寝室を昼間も使えるようにするために、折り畳み式ベッドが流行したわけです。

お茶の水分かアパートメントの「3室型」間取り(リビング、DK、バスルーム)。リビングの壁式収納ベッドを引き出すと寝室に。(出典:MADORI「間取り」カタログ、2001年、リビングデザインセンター)

鍛治さん この「お茶の水文化アパートメント」に見られるライフスタイルは、何か実験的な試みだったんでしょうか。

内田さん 「お茶の水文化アパートメント」は実際にこうした計画が採用された例ですが、一般の住宅でもこうした考え方は採り入れられ、例えばソファは、お客さんが泊まる時にベッドとしても使えるよう、ソファベッドもよく売れたようです。実用本位で便利で無駄のない暮らしが良いという考え方は、一般の住まいにも反映されていきます。前回もお話ししましたが、当時のこうした考え方は、時代を経て、戦後の小規模住宅に復活します。

── 生活思想に関しては、時代をぐるぐる巡っている感じですね。

内田さん そうですね。明治後期には社会に洋風趣味がどんどん入ってきて、中流層の暮らしにも採り入れられるようになります。男性は出勤の時は洋服を着て、家に帰ると和服に着替える生活だったと思いますが、西洋のライフスタイルが浸透するにしたがい、日本の住宅は洋風に向かわざるを得ない状況になった。でも和の良さも捨て難い。それで昭和初期には和洋折衷のスタイルが生まれます。それまで和洋二重生活は無駄が多くて良くないと批判されていましたが、昭和になると日本だからこそ、和と洋の両方を楽しめる和洋折衷の住まいがありうるのだと、同じものが批判から評価に転じるわけですね。

 和風住宅に接して「洋館」をたてる明治中期以來の大ブルジョアの行き方は、單に住まい生活のヴアリエーションを豊富にしているといふだけで、起居様式の改革の方法としては問題にならぬ。又それとは別に、スケールを小さくしてそれを眞似たものといふべき、住宅の一部、書斎、應接室などの一室を椅子式にしたものが相當ある。併し、此の行き方も「公け」の生活が住まい生活に入りこんで來る部分に「公け」の起居様式を前進させ持込んだというべきもので、二重生活の一方の境界線が、住宅の方へ若干前進して來たものに過ぎない。
 こゝにいう第二の行き方は此の様な境界線の移動ではなくて、住まい生活の内部に於いてイスザ生活をとり入れたものであり、イスザとユカザを内面的に融合させようとしつゝより接近させ對峙させたものである。住宅の一部のユカをイスザの坐高だけ高くし、そこにユカザ生活を残し、同じ住まい空間のうちに兩様式を統一して新しい起居様式を生み出そうとする行き方である。
 藤井厚二博士の若干の試作住宅は此の行き方を試みてゐる。
 此の行き方は舊い慣習との急激な絶縁をおそれる故にその保存に忠實であるが、それだけその負擔を新しい生活に背負いこませてゐる。これこそ二重生活の弊害の一端を最も明白に表現したものであつて、國民一般にとつては耐え得ない住宅の非能率的な擴大がそこでは不可避である。新しい生活習慣の育成、あるいはそのとり入れ限度などを研究してみる試作住宅としては興味深いものだが、一般大衆の住宅の住まい様式として取上げ得るものではない (西山夘三「これからのすまい」1947年、相模書房刊)

鍛治さん どんな方が和洋折衷を再評価したのでしょうか。

内田さん 当時、建築家たちは「どんな家が良いのか」いろいろな意見を雑誌などで発信していますが、これまでの和洋二重生活批判に対して、むしろそれこそ日本人の本当の住まいだと評価する建築家も登場します。これは施主が求めていたものでもあり、建築家が建て主の和風への想いを抑え込んで「洋風が良いですよ」と押し付けていた時代から、理念先行では良い住まいは実現できないと、施主の希望を反映させた家を考える中で、施主の本音がプランに表れてきたと見ることもできます。

── 私たちは現在の住まいの形がある程度完成したものだと思いがちですが、住宅は過去も現在も常に過渡期ということなんでしょうか。

内田さん 過渡期でしょうね。私が学生の頃は住宅設計には「居間」が大切だと言われていたんですよ。家族が集まる団欒の空間がない家はあり得ないと言われていた。でも家族団欒という視点が生まれたのは大正時代です。言葉としては明治からありましたが、住宅の空間づくりの中で語られたようになったのは1920年代ですよ。まだ100年も経っていない。その頃の思想が戦後、私が学生の頃に具現化して、今は誰もが家族団欒の大切さを語るようになりました。わずか100年で、それくらい日本人の住宅観は変ったわけです。それには功罪があって、私たちは変えなくてもよい部分までドライに変えてしまいました。今日の、古さの価値を軽視する眼差しは、生活文化の変化と無関係ではないでしょう。もっとゆっくりと時間をかけて変えていったなら、日本人が大切にしてきた価値観や美徳はこれほど失われることがなく、現在につながっていたのではないかと思います。一方ではこの姿勢が日本の経済成長を押し上げた推進力にもなったことも否めませんが。
 寝室からちょっと逸れるかもしれませんが、急速な変化を求める動きは、スクラップアンドビルドという言葉に象徴されるように建築界の常識となっていました。生活文化の変化から派生して、古い建築や住宅がどんどん壊され、捨てられるという問題が生じています。スクラップアンドビルドをやめ、もっとゆっくりした変化を基本とするような社会にしていかなければなりません。私は、スクラップアンドビルドにかわり、これからはキープアンドチェンジで、建物をできるだけ維持し、必要な人にバトンタッチしたり用途を変更して使い続けることが必要だと思います。

鍛治さん モースは近代化を急ぐ日本が、日本特有の伝統を置き去りにしている様子に危惧して、それらが近い将来に失われてしまうのではないかと警告を発していましたね。

内田さん モースが日本に滞在していた頃、日本を訪れた欧米の知識人たちは、日本は西洋に比べて劣っていると蔑んでいました。でも、モースは比較人類学の学者でもあったので、西洋文化と日本文化の優劣を単純に比較する、西洋人たちの見解に批判的な立場をとっています。ただ、モースのような考え方は少数派で、大多数は日本は遅れているから近代化を急げと煽り立て、明治の官僚はそれに狼狽して改革を急いだのです。確かに日本は急速に近代化していきました。モースが心配したように、失われたものも多かった。
 住宅も同様に、大正時代にはアメリカの住宅が理想モデルになり、それを目標に日本の建築家や住宅関係者たちは切磋琢磨してきた。現在は質的には十分追いついていて、ヘーベルハウスを始めとする工業化住宅は、住宅性能では世界でもトップレベルであると思います。ただ、今は目指すべきベンチマークが失われたため、次は何を目指すべきか迷っている時代なのかもしれません。お手本を乗り越えたこれからが、日本の住宅の正念場と言えるでしょうね。

現在の一般的な間取りが完成してまだ一〇〇年も経っていないという事実からだけでも、すべての人々が新しい住まいや生活を切り開く可能性を持ち得ていることを意識してもらえるのではと期待している。 (『「間取り」で楽しむ住宅読本』の後書より。P.220)

鍛治さん 本来なら、どういう生活を送りたいか、生活者の想いが住まいの形を変えていくのだと思いますが。

内田さん そうですね。でも、問題なのは日本の学校教育で住教育が十分に行われなかったことだと思うんですよ。優秀なエンジニアはたくさん生まれましたが、生活を考える能力が育まれてこなかった。

鍛治さん ハードだけじゃなくてソフトのほうも大切ですよね。

内田さん そうそう。今、学校では「家族」の話をする時、家には父と母がいて……という表現ができなくなっている。確かに片親で苦労している児童もいます。ただ、理念としての本来の家族のあり方を語る場合……まあ、その「本来」というのも難しいんだけれど、「両親と子ども」が家族の一つのモデルで、そこから生活を発想することが否定されると、誰も住宅の「べき論」が語れなくなるわけですね。建築家は何でも認めてしまうようになる。それは多様化だと言われますが、多様化ってそういうことではないですよね。「何でもアリ」ではなく、批判されても、議論されても、自分たちが考える「これからの暮らしのモデル」をどんどん提案すべきだと思います。それは生活者が「自分はどんな暮らしをしたいのか」を考えるきっかけになるはずですから。
 教育の現場で感じるのは、子どもたちの「暮らし」を考える力があまりに貧しいこと。建築学科で住宅設計の課題を出すと、建物は設計できるけれど、どこでどんなふうに暮らすのか、そのイメージを描けないんですよ。何もない空間を設えて「人それぞれだから使う人が考えればいいと思う」で終わってしまう。

鍛治さん 生活が見えない……。

内田さん 確かに人それぞれだし、空間さえあればそこで生活はできるかもしれない。でも、それをゴールにしていいのか、ということですね。最近の学生は自分が提案したい「暮らし」は何かを提示することが苦手です。かつて、建築家が施主のために住宅を設計する時には、それなりに葛藤しながら最良の解を導き出していましたが、最近は何だかわからない空間の集積としての住宅が増えているように思います。独断と偏見でも構わないので、自分が考え、導き出した答えを積み重ねて、どんどん提案していかないと、一般の人々が「どういう生活を送りたいか」考えられるようになれないですよ。これも建築家の役割だと思うんですけどね。

「朝のひかり 夜のあかり」に掲載の記事・写真の無断転載を禁じます。すべての内容は日本の著作権法並びに国際条約により保護されています。
 No reproduction or republication without written permission.

Latest Column