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暮らしのコツ

鍛治さん 住宅が生活に結びついていないと、寝室には静かな箱を用意すればいい、で終わってしまいがちです。台所は合理性が目に見えやすいですよね。合理的な動線や経済性もわかりやすいです。でも睡眠に関してはそれが見えづらい。

内田さん 台所が大きく進化したのは、進化させるための論理ができたからでしょう。台所は労働の空間ですから、労働の軽減や経済性など、誰もが目指すべき方向を共有できた。でも寝室は、眠るためにどんな装置が必要なのか、どんなプロセスがあるのかは千差万別で共通項を見出しづらい。そういう意味では寝室は、住み手側が自分にとっての理想の寝室が何かを設計者に伝えなければいけないのに、そういう話し合いは十分にはできていないのではないでしょうか。
 寝室は確かに眠る空間なのだけれど、その部屋に入った瞬間、スイッチが切れるように眠りに落ちるわけではない。家庭では妻との会話って大事だと思うのですが、普通は「ただいま」と帰宅して食事してテレビを観るだけで家庭生活が終わってしまい、自然に会話は生まれませんよね。家族のきっかけとなった二人が、改めて家族や自分たちの話をする空間があるとすれば、それは寝室でしょう。また、男性にはかつては思索の場として書斎があったけれど、今は子ども部屋が優先されて、家の中で一人で考えるための空間がなくなってしまった。それがトイレだったりするのは悲しいじゃないですか。その意味でも寝室は、父親であり夫が家族のあり方を想い、一日を振り返る余力が生まれる空間だと思うんですよ。ただ寝る部屋というだけではなく、そうした場として寝室を位置づけることも大事ではないかと思います。手紙を書いたり、本を読んだり、そんなコーナーが寝室に設えられていて、その場を夫婦で共用できる。それが居間でも良いのかもしれないけど、居間は家族の公共空間ですからね。そうした役目を果たす場所は、やはり寝室がふさわしいと思います。

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── むしろ「寝(=眠る)室」ではなくて、別な名前がふさわしいようにさえ思えますね。

鍛治さん 洋風の寝室が理想ではなく、日本の気候風土に合う空間が私たちにはふさわしいと書かれていますが、寝室を考えるようになった時代の住宅プランにおける寝室の場所は……。

内田さん 西洋の住宅の情報が日本に知られるようになった頃は、洋館は2階建てが中心でしたが、日本の住まいはほとんどが平屋でした。日本で2階建て住宅が増えるのは関東大震災以後のことです。西洋の住宅は1階は客間などのパブリックな空間で、プライベートの空間は2階にまとめられています。こうしたフロアの使い分けを日本でも踏襲していて、寝室は2階に設けることが推奨されます。寝室をつくる方角は東南が良いとされましたが、朝日とともに起床する目覚めの重要性を考えてのことですね。

鍛治さん 自然に目覚めるというのは良いですね。現代は自然に眠り自然に起きることが難しいので、みんな工夫して眠っていると思うんですよ。

内田さん なかなか自然に眠ることはできないですよね。自然な眠りにはそのための準備が必要になる。その余力も寝室には求められますね。

鍛治さん 寝室の灯りもどんどん変っています。東日本大震災後の電力不足が不安視されて住宅にも省エネ性能の高いLED照明が普及しました。夜の人工光の環境は一気に変りました。それがまた、眠りの準備を妨げる原因になっているかもしれません。

内田さん 戦後の蛍光灯の普及で室内の光環境は大きく変りましたよね。あの頃は明るさが豊かさでしたから、夜には照度いっぱいに煌煌と蛍光灯を灯すことが至福の空間だった。ヨーロッパでは明るさよりも、昔から連続する生活文化の質を維持することを意識しながら、新しい光源を受け入れてきましたが、日本では蛍光灯に総取っ替えでしたからね。

── 蛍光灯のメーカーによる「明るさ=豊かさ」のライフスタイル提案が戦後の日本人にハマったんでしょうか。寝具や家具のメーカーからの寝室の提案ってあったのでしょうか。

内田さん どうでしょうね。メーカーからの提案については門外漢なので分かりませんが、昔ながらの重い布団よりも軽い羽根布団が良いという提言はヴォーリズが行っていましたよ。彼は、貧乏な人が冬場に寒くて眠れない時に重たい石を抱いて、汗をかきながら温かく寝たという逸話を紹介して、日本人が重い布団を好むのはそれと同じことで、それは本来の眠りとは言えないと書いています。科学的な根拠があるかどうかは分かりませんが、彼は体の負担の少ない軽い布団を推奨しています。それ以外にも、日本人が西洋人に比べて小柄なのは子どもの寝室がないからだとも指摘していますね。子どもの成長には十分な睡眠が必要なのに、日本の家には専用の寝室がないので、大人が眠るまで一緒に起きている。でも西洋の住宅では子どもは小さい頃から寝室が与えられているので、夜はたっぷりと眠ることができる。子どもの睡眠不足が日本人の身体が大きくならない理由だと。それが本当かどうかはともかく、西洋人たちは日本の眠りの道具や空間からも、日本人を解読しようとしている様子が垣間見ることができて面白いなと思います。

混合就寝の諸要因のうち特に最後の傳統的な分離就寝に對する無關心ということは、既にのべて來たような過去の家長的家生活に於ける夫婦生活並に性生活に對する曖昧な解決がそのまゝ行き殘つていることを意味するもので、夫婦生活の近代的意味に於ける節度ある確立が低い住居水準の制約の下に何等實現させていないことを示している。
 この曖昧さ、分離就寝に對する無關心は、親と同室にねるという習わしを確然と打切らず、子供が大きくなつて行つても添い寝の形がそのまゝ延長殘存しているという傾向にもうかゞわれる。これは後に述べる女性の同室就寝者の集計についても見られるところで、若い獨身女性で兄弟とねる中性寝が多いが、それが女性の年齢上昇と共に若異性寝(弟の年齢がふえて來て十三歳以上となつても同室する)、異性寝(二十一歳以上になつても同室する)にまで延長し、又中年以上の女性では(十三歳以上の)その子供と同室にねる若異性寝が多くみられるのである。
 我々の住まい生活で子供がもの心つくと「獨りで寝るのですよ」と親が子供にいひつける習慣が全然存在しない。親はそういうことをいう時、それが本當に子供の自立心を養いその人格をつくつて行く重要な作用をなすという點を考えてみもせず、子供を可哀そうがつたり、何かほかの不必要な「うしろめたさ」を獨りぎめで感じて、そして遠慮しているのである。住宅ががなり大きい場合でも、そうした混合就寝が相當見出されるということは此の事實を示している。 (西山夘三「これからのすまい」1947年、相模書房刊)

鍛治さん でもヨーロッパも昔から子どもの寝室があったわけではないですよね。

内田さん かつては暖炉のある部屋でみんなで寝ていましたから。子どものための部屋がつくられたのは、基本的にはヴィクトリア朝時代の工業化社会以降といわれています。19世紀の半ばくらいから、住宅において家族生活の場と共に子どもの部屋が重視され、また、住宅の諸設備も充実したものとなり始めるのです。

『「間取り」で楽しむ住宅読本』P.168より 夫婦用のメインベッドルームにスリーピングポーチが付いている間取り

鍛治さん パジャマやガウンも西洋の文化的な装いとして戦前の日本に入ってきて、戦後、本格的に普及した舶来文化ですが、 そうしたナイトウエアが日本の伝統的な空間にはそぐわないから寝室が洋風化したのか、寝室が西洋風になったからパジャマが普及したのか、先生はどちらが先だと思いますか?

内田さん う~ん、それはあまり考えたことなかったですね。

鍛治さん 寝室にふさわしい装いとしてガウンに着替えていたのだと思うのですが、寝室と居間が一緒なら着替える理由もないですからね。

内田さん これは私の私見ですが、西欧諸国は高緯度なので日暮れが遅いため、ナイトライフの過ごし方も日本とは違うと思うんですよ。仕事を終えて帰宅してもまだ明るいですからね。暗くなるまで、さまざまな時間の過ごし方がある。その時間のためのホームウエアがあり、ファッションも楽しみながら、就寝までの時間をリラックスして過ごす生活文化があるのでしょう。日本でもそんな時間や文化が成熟すれば、寝室やナイトウエアのあり方は変るかもしれません。寝室というハードは西洋から日本の住宅に移植されたけれど、そこで過ごす時間の文化は入ってこなかったんでしょうね。

鍛治さん なるほど。

内田さん 帰宅してから就寝までの時間を楽しむ文化が育てば、生活は変ると思います。そういう文化を無理矢理つくるくらいの姿勢でちょうど良いかもしれません。ヨーロッパでは居間はパブリックな意味合いもあるので、近所の方々を招いてパーティーも行われて、近隣の住民との交流も生まれるけれど、日本の住宅は居間は家族だけの空間でどんどん閉じていく方向にありますからね。そこを何とかこじ開けないと。

── ヘーベルハウスでは寝室の手前に眠りの準備のための空間を提案していますね。

内田さん そういう設えが新しい時代の生活文化をつくっていくのだと思いますよ。今日の住まいには、部屋の扉一枚で意識をいきなり分断するんじゃなくて、気持ちを自然に切り替える場や装置が求められていると思います。かつての日本家屋にはそんな装置がたくさんあったと思うんですよ。

── かつては居間のちゃぶ台を畳むことが眠りの準備のための行為だったんでしょうかね。

鍛治さん 安心で安全で快適な寝室が完備されている現代社会で、これだけ眠れない人が多いのは問題ですよね。これまで当たり前のように行われていた暮らしの中の「切り替え」がないままで、寝室に入っていきなり自然に眠ることは難しいかもしれない。

内田さん これだけ室内環境の技術が向上しても、不眠に悩む人がいるということは、もう技術で解決できる問題ではないんでしょう。文化やシステムの提案が必要なのだと思います。これまでは技術先行でも良かったけれど、やっぱり縁側が欲しいとか、「スイカ食べるなら縁側に限る」みたいな暮らしのこだわりも大事なんだと思いますよ。

鍛治さん 睡眠のメカニズムから考えると、日中に自然に太陽光を浴びることは大事なんですが、昔はお年寄りも縁側の庭先で軽作業をしていたり、縁側でのんびりする時間に自然と、意識せずに日光を浴びていましたよね。そうした日常生活が夜の快眠にも良かったのだと思うんですよ。快眠には寝室を充実させるのはもちろんですが、実はそれ以外の場所に良い眠りのための要素があるんじゃないかと思いますね。

内田さん 20世紀初頭、戦前のアメリカではスリーピングポーチというのがありました。外気で眠ることが健康に良いとされていて、屋外で寝る場所がつくられていたんですね。横浜にあるベーリック・ホール(旧ベリック邸)は、アメリカ人建築家のJ. H. モーガン*³によって1930年に建てられた建物ですが、その図面にもスリーピングポーチという場所が記されています。アメリカ人も健康的な寝室に対してはこだわりがあって、ベッドの枕元の窓が開けられるような仕様とか、屋外で眠るための暖房装置が考えられていたり、外気で眠るためのいろいろな提案が行われていたようです。現在はそんな習慣はなくなったと思いますが。一方、日本では寝室に関してはそういうこだわりはないですよね。お仕着せをそのまま使っている感じです。日本人は寝室の話になると口が重くなるけど、本音は夫婦でも別々の寝室が欲しいというのが多数派なんでしょうね。

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── 西欧では夫婦はダブルベッドですよね。ツインベッドは考えられない。

内田さん そうですね。日本では、布団は一人一組なので、畳に布団を並べて敷くスタイルがそのままベッドに置き換えられたのかなと勝手に想像しています。

 ところで、一九一〇年代から二〇年代のアメリカの住宅について、スライドを交えて話す機会があった。その会合に参加していた知人が、スライドで映し出された夫婦の寝室のベッドに注目して、質問してくれた。
「ベッドは、ツインベッドだけど、これがアメリカの一般的なスタイルだったの?」
「ヨーロッパじゃ考えられない! ダブルベッドが当たり前で、ツインベッドだと、離婚しよう、と言ったことになるわよ!」
(中略)
そもそも、日本ではベッドよりもいまだに布団を使用している方も多い。布団は、基本的には個人用であり、ダブル布団の存在も聞くが、普及しているということは聞いたことがない。布団文化からすれば、ダブルベッドよりもツインベッドのほうがわが国で普及しているのも理解できる。 (『「間取り」で楽しむ住宅読本』より。P.156-157)

鍛治さん 日本の文化にも精通した韓国からの留学生に、韓国の寝室について取材したいとお願いした時、流暢な日本語で「韓国は日本とほとんど同じですから」と言われたのですが、日本の夫婦はツインベッドで寝ると言うと、びっくりされたことがありました。韓国でも台湾でもダブルベッドが主流なんです。日本の寝室のあり方は東アジアの中でも特殊なんです。

── 無印良品が中東に進出する時に、日本で大ヒットしたシングルサイズの脚付マットレスを見せたら……。

鍛治さん これはベッドではないと言われたんですよね。中東もダブルベッドが当たり前ですから。シングルが当たり前だと思っている特殊性を自覚している日本人は少ないですよ。ちなみに、そのことを初めて知った良品計画はダブルサイズのベッドを作ったんですが。ベッドをめぐる睡眠文化の違いを示す面白い例ですね。

内田さん アントニン・レーモンドの自邸や土浦亀城さんの自邸の寝室ではベッドが縦に一直線に二つ並べられていたんですよ。どのように寝ていたのかは分かりませんが。そんなレイアウトもありました。当時からそんなレイアウトだったかも不明です。その謎解きはこれからです。

鍛治さん う~ん、いろいろ興味深いお話がうかがえました。どうもありがとうございました。

*1 ウイリアム・メレル・ヴォーリズ、一柳米来留(ひとつやなぎめれる)

William Merrell Vories、1880~1964年。
建築家、宗教家、実業家。アメリカ・カンザス州生まれ。英語教師として来日後、1908年に京都に建築設計監督事務所を設立、日本各地で西洋建築の設計を数多く手懸けた。1941年に日本に帰化してからは、華族の一柳末徳子爵の令嬢満喜子夫人の姓をとって一柳米来留(ひとつやなぎ めれる)と名乗った。ヴォーリズ合名会社(のちの近江兄弟社)の創立者の一人で、アメリカの塗り薬メンソレータム(現メンターム)を日本に普及させた実業家でもある。日本各地でキリスト教会や学校の設計を手掛けた。作品は、明治学院大学礼拝堂(1916年)、大丸心斎橋店(1922~33年)、山の上ホテル(旧佐藤新興生活館、1936年)など。

*2 「お茶の水文化アパートメント」東京都千代田区

竣工:1925年。構造と規模:鉄筋コンクリート造・地下1階地上5階建て。
関東大震災後に誕生した、日本初の本格的な西洋式アパートメントハウス(現存せず)。合理的な新生活を志向する東京市民のために、森本厚吉が1922年に財団法人文化普及会を設立し建築プロジェクトに着手、ヴォーリズに設計を依頼する。江戸川乱歩の作品で、名探偵明智小五郎が探偵事務所を開いていた「開化アパート」のモデルとなった。屋上には運動場と空中庭園、共用のゲストルーム、カフェテリアや社交室などの共用スペースも備えていた。

*3 ジェイ・ヒル・モーガン

Jay Hill Morgan、1873~1937年。
建築家。アメリカ・ニューヨーク州生まれ。日本フラー建築会社の設計技師長として1920年に来日。東京・丸ビル、郵船ビルヂングの設計に携わる。1922年に日本郵船ビル内に建築設計事務所を開設、後に横浜市山下町に移転。1937年に逝去するまで、主に横浜を中心に活動した。作品は、東北学院大学本館(1926年)、松山東雲学園正門(1926年)、関東学院中学校旧本館(1929年)など。

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