第二次世界大戦後、「住宅」は日本でも産業として根づいた。
宮大工や町大工が墨づけから手がける木造の家にとって代わり、工場のラインに乗せて組み立てる鉄筋コンクリート造のプレハブ住宅が頭角をあらわしたのだ。
プレハブ住宅とは正確にはプレファブリケイテッドハウスという。
直訳すれば「工場生産住宅」だ。
とりわけ戦災で焼け野原と化した東京は未曽有の住宅不足に陥った。
1950年代に入り徐々に街が復興するにしたがい、終戦直後に緊急でこしらえたバラックの狭さも気になりはじめたにちがいない。
この時代、住宅市場に新規参入が相次ぎ、「工場生産住宅」の礎が築かれる。
日本経済が力をつけていくなかで人口の都市集中化が加速し、同時に職人不足や木材不足も重なり、鉄骨によって柱と梁を作りパネルによって壁や屋根を作る鉄骨系プレハブ住宅のニーズが高まったのである。
50年代半ば以降は朝鮮動乱用に作られた軽量鉄骨のファクトリーラインが空き、民需に回さなければ工場が遊びはじめるという設備面での事情もあったようだ。
そのような時代を経て、70年代初頭の日本に誕生したのが、ヘーベルハウスだった。
ヘーベルハウスのルーツを探れば、バウハウス初代校長ヴァルター・グロピウスによって考案されたドイツの実験住宅にたどりつく。
バウハウスがワイマールからデッサウの地に移り、造形大学になった1925年以降、グロピウスの実験は本格化する。
コンクリート、鉄、ガラスといったマテリアルの可能性を探り、自分たち教師の住まいとしてデッサウに建てたマイスターハウスや、郊外のテルテン村に建てた集合住宅テルテン・ジードルングによってプレハブ住宅の実用性を世に問いはじめた。
その構造はトロッケン・モンタージュ・バウ(乾式組立構造)と呼ばれ、日本にも紹介された。
この乾式工法が現在の鉄骨系プレハブ住宅の起源と言われている。
「最も少ない材料で最も高度な性能を約束するシェル」。
これがグロピウスの提案するプレハブ住宅のテーマだった。
なかでも彼の注目したマテリアルが、ALC(軽量気泡コンクリート)の原型として知られるガスコンクリートだ。
テルテン・ジードリングで使用したガスコンクリートは、一般のコンクリートの4分の1の重さながら10倍の断熱性を持っていたという。
炭素が結晶化すると硬いダイヤモンドになるようにコンクリートの細胞が気泡を含むと規則正しく並んだ結晶体となり、コンクリート自体の強度が増す。
その強度に彼は、未来のロングライフハウス像を見いだしていたのだ。
やがて同じドイツ人であるヨゼフ・へーベルの手によって建材としてのALCのパネル化が成功し、鉄骨系プレハブ住宅はヨーロッパ各地に普及していく。