「恒久的な工業製品は、ドイツ人が発明し、イギリス人が投資し、アメリカ人が製品化し、フランス人が装飾し、イタリア人が宣伝し、日本人が高性能化し、中国人がコピーし、生きつづけている」
すべてがそういうわけではないだろうが、鋭いところに目をつけた賢者のジョークだ。
たしかに工業製品の多くは、英国産業革命を経て19世紀後半から20世紀前半の第二ステップ期に入ると、ドイツで開発され、アメリカで製品化が進められた。
発展を決定づけたのは、鉄鋼業、機械工業、化学工業、電気機器工業、建設業などの分野であり、ヨーロッパの貿易中継点に位置し鉄や石炭をはじめとする鉱物資源にも恵まれたドイツと、巨大なインフラ需要をひかえたアメリカが、この時代に飛躍的な発展をとげ、世界の生産活動の中心的役割を担うようになった。
ドイツには、もうひとつ強みがあった。
それは、頑固な帝国主導によって確立した技術教育システムだった。
技術に対する伝統的なこだわりによってマイスター制度が充実し、その後、科学や芸術と工業との強い連鎖によって革新的プロダクトデザインを生み出す基盤が整った。
バウハウスに象徴される1920年代以降のモダニズムムーブメントも、突発ではなく、歴史的な流れのなかから生まれたものだった。
革新的で慎み深く、正直で粗野なジャーマンギアをここで再認識し、暮らしの方程式に組み入れたい。
第二次産業革命で育った引き算の美学
ドイツゆえ、というわけでもないが、少々おかたい話からはじめよう。
なぜドイツで開発される工業製品の多くが、機能的にすぐれているだけでなく普遍的なデザインをしているのか。
その答えは「FORM FOLLOWS FUNCTION」という言葉で表現される。
形が機能にしたがっている。
機能最優先で製品化がすすめられている、だからデザインに無駄がないという意味だ。
ではいかにしてFORM FOLLOWS FUNCTIONの考えがドイツという国で芽生え、大衆プロダクツの領域で成功をおさめることができたのか。
歴史をひもといてみたい。
英国で火がついた産業革命以来、ヨーロッパと新大陸で鉄鋼業と機械工業が急速に発展していくが、その第二次成長期といえる1870年から1910年代はじめにかけて、ドイツはいちじるしい成長を遂げている。
この時代にFORM FOLLOWS FUNCTIONの考えがマスレヴェルで定着したといってまちがいないだろう。
当時の鉄鋼業の主役といえば、鉄道建設だ。
ドイツは国内に大規模な鉄道建設を行ううえで、英国で開発された鋼鉄生産方法を採用しようとしたが、それがうまくいかないと知るや、欠点を克服するために開発された別の方法(トーマス法)を採用し、鋼鉄生産を急増させることに成功した(アメリカも独自の方法を採用し、成功した)。
機械工業の分野では、おなじく発展を遂げていたアメリカで生み出された互換性部品方式と、そのために不可欠な部品規格化を(その法律化も)国をあげて推し進め、工作機械大国にのし上がった。
ドイツは、アメリカの合理主義のメリットをヨーロッパのなかでいち早く読み取っていた。
おかたい、と書いたがじつはとてもやわらかい頭をした国なのだと思える。
さらに、この時代にドイツは新しい産業の発展を見越して研究開発に金と時間をかけた。
電気機器と自動車の開発はその最たるものだった。
その両者とも、実用化はドイツがとびきり早かった。
電燈が作られ、電力の用途が広がり、モーターが開発され、コスト削減のための発電・配電方式が不可欠になり、そのすべてをドイツはスピーディに実用化した。
ガソリンを燃料としたエンジンを初めて作ったのもドイツだったが、それ以上に大きかったのは、互換性部品方式とアセンブリーライン方式を大衆車製造に活用し、大量生産と大幅のコストダウンをはかれた点だった。
スピーディな製造工程の最大の敵は、余計なデザインや華美なデザインだ。
ドイツ製品の隙のなさとは、第二次産業革命の成長競争の真只中で、無駄な作業をすべてそぎ落としてスピーディかつ効率よく生産活動を行うなかで完成されたのだろう。
この時代、化学工業の分野でもドイツは抜きん出ていた。
なかでも人口染料工業は世界の市場を独占し、それが有機合成化学工業の大発展につながった。
いまの時代にくらべても、この時代の産業の多角化や大規模化はすさまじい勢いだったわけだが、とりわけ19世紀末の価格下落期に、ドイツは企業合併や企業連合を進め、中小企業体のまま死なせない産業構造を作り上げた。
いわゆるカルテルの合法化だ。
これも大きかった。
この時代の大躍進の背景には、ドイツ帝国の成立によって盛り上がった団結力がよこたわっていた。
良い意味でのナショナリズムの高揚だ。
それに加えてゾーリンゲンの鍛冶場で働く男たちにみられるような、技術に対する伝統的なこだわりがあった。
勤勉かつ粘り強い精神は大企業化が進みはじめたこの時代になっても消えることはなく、その伝統を進化に変えるための技術教育機関も数多くつくられた。
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科学技術と工業、工業と芸術など、ジャンルを超えた結びつきによって大衆製品を作っていったのもドイツだった。
1919年に創設されたバウハウスは、そういった流れのなかから生まれた機関だ。
あたらしい産業に対する政府の直接的支援や管理が行き届いていたし、資金調達のための総合銀行の力も強かった。
いわゆるベンチャービジネスに対する投資意欲や聞く耳もしっかり持っていたと思われる。
written by Hiro Naooka
※WEB掲載用に一部加筆・修正しています。