バウハウスの教えに響く精神がアメリカにはあった
第二次大戦中、ナチスの弾圧から逃れようとアメリカへ亡命したドイツ人のなかにバウハウス出身者が多くいたことは重要なポイントだった。
バウハウス創設者のグロピウスは1937年にアメリカへ亡命し、ハーバード大学でモダニズムの建築教育を根づ
かせた。
同じくモホリ・ナギはシカゴにニューバウハウスを創設した。
ミース・ファン・デル・ローエは1938年に亡命してイリノイ工科大学で教鞭を取った後、摩天楼の生みの親となった。
彼らは若いアメリカ人クリエイターたちに対し、「大衆のための大量生産活動を通じて建築や工業製品の
価値向上を行うべき」という教育をほどこした。
また、幾何学的デザインやタイポグラフィを用い、写真や印刷による表現を大衆に向けて発信せよと説いたのも、アメリカへ渡ったバウハウス出身者たちだった。
前記事で記した通り、第二次産業革命期にアメリカはドイツとともに大きく成長した。
フロンティアの時代以来つづいてきた慢性的人手不足を解消するためのマニュファクチュアリングシステムの導入をつうじて国をあげて豊かな生活を作り出そうというエネルギーが蔓延し、そのシステムは街単位にも広がったが、それをいち早く採用した町工場の経営者の多くがドイツ移民だった点も見逃せない。
「シューメーカー」という苗字がつくアメリカ人の祖先は、ほとんどがドイツ移民だ。
バウハウス出身者が唱えた大衆のためのモノづくりの精神を理解できる土壌が、すでにアメリカにはあったのではないか、そう思えるのだ。
「FORM FOLLOWS FUNCTION」の精神をもつシンプルな機能美にすぐれたドイツ製品をアメリカ人が好きな理由も、そこにあるのではないか。
© Gettyimages
written by Hiro Naooka
HailMaryこちらのコラムはHailMary8月号に掲載されています。
※WEB掲載用に一部加筆・修正しています。
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