バウハウスの遺産

バウハウスの遺産vol1:カリズマは崩れない明日を描いた

STUDY

代官山蔦屋書店にてバウハウスの「謎」を追う

代官山蔦屋書店には、いかにもといった風情で近代建築関連の書籍コーナーがレイアウトされている。
平日の午後、リサーチを兼ね、そのコーナーの脇に据えてあるベンチに腰かけてBAUHAUSというタイトルのついた本をかたっぱしから読みあさっていると、おそらくこの辺りで働いている人たちだろう、グラフィックデザイナー風の男女が代わるがわるやって来て、ライト、ミース、コルビュジェ、丹下...著明な建築作家にまつわる本が並ぶ棚の前で色々物色している。
美しいフォトブックには物欲がわくが、プライスを見てあきらめる。
とりわけこの手の洋書は高すぎる。
もう少し安くしてあげれば彼らも買うだろうにと思いながら、こっちもベンチで粘りつづけた。
しかし、ほとんどすべての本を調べても、「その謎」を解くことはできなかった。
それは、この特集を作るにあたって重要なカギとなる、バウハウスの初代校長ヴァルター・グロピウスに関する「謎」であった─。

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photo © Christoph Petras, 2011

バウハウスを創った男グロピウスにまつわる謎

バウハウスは、建築の世界だけでなく、インテリア、アート、印刷といった世界にも大きなインフルエンスを与えている。

それをテーマにしながら、当時の作品群をきれいにレイアウトして編集すると、雑誌の特集ページが華やぐ。
過去に何度となく同じ方法でバウハウスの特集が組まれていることを考えると、編集者にとって「バウハウス」とはかなり重宝するネタなのだろうと思える。
ところが、代官山蔦屋に出向いて洋書をあさり、大宅文庫に出向いて数ある雑誌のバックナンバーを見返しても、「その謎」については一切触れられていない。
先達の編集者もきっとわからなかったか、関心がなかったにちがいない。
「その謎」とは、フランク・ロイド・ライト、ミース・ファン・デル・ローエ、ル・コルビュジェと並び「モダニズム建築の四大巨匠」と称される男(一部にはモダニズム建築の父と呼ばれる男)、ヴァルター・グロピウスにまつわる謎だ。
いったいグロピウスという男は、誰の手によって、また、いかにしてバウハウスの初代校長に任命されたのか。
その史実がどの文献を見ても曖昧で、不明確なのだ。

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photo © Getty Images

バウハウスの創立は1919年。
11月革命によってプロイセン邦を中心とするドイツ連邦大帝国が崩壊し、ワイマール共和国が誕生したこの年に、現地にあった工芸大学と美術学校が合併し、「国立バウハウス・ワイマール」の名で設立されている。
初代校長にはグロピウスが就き、ハンネス・マイヤーとミース・ファン・デル・ローエに引き継がれ、その後ナチスの圧力によって1933年に閉鎖され、14年の短命を全うした。
設立後のプロセスについてはウィキペディアにも詳しく載っている。
しかし、1919年当時の政権交代下のドイツで、まったく新鮮なカリキュラムと自由の空気を、現実的に教育の現場へ吹き込むことができたグロピウスという男を、いったい誰が起用し、いかに許容したかという事実については、彼自身の著書を読んでも他の資料をあさってもよくわからない。

あきらめかけていた頃に、絶版となっていた『バウハウス 歴史と理念』(利光功著・1970年美術出版社刊)という一冊がアマゾンから届いた。
グロピウス起用の経緯については、やはりよくわからないと記されていた。
ただ、この本にはこういう一文が載っていた。

「バウハウスが誕生するころは、暫定的な仮政府(ワイマール共和国の新政府)が置かれてはいたものの、実際の行政は(ドイツ帝国の)旧大公の官庁によって行われていたであろうから、両者の間に過渡期の混乱がみられたと思われる。
多分グローピウス(編註:表記原文通り)はこの混乱を知っていて、それを十分に利用したに違いない。
仮政府と宮内庁の両方に掛け合い、閉鎖されていた工芸学校を復活し、美術大学と合併させバウハウスと名づけることに成功したのである」。

バウハウスとは、ドイツ語で「建築の家」という意味だと言われるが、この本の著者である利光さんは、「グローピウスによる造語になるものと考えてよい」と明記している。
「中世の建築職人組合を意味するバウヒュッテ(Bauhütte)という言葉があるから、グローピウスは多分それをモダーンにしたものとして思いついたのであろう」と。
利光さんによれば、最初の一年間は、バウハウスにかかるほとんどすべての経費をグロピウス個人で工面していたそうだ。
なんとしても彼にはやり遂げなければならないことがあった...。

そこでようやくわかった。
グロピウス自身がそのことを曖昧にしていたのだ。
バウハウスを創るにあたり、彼は、プレゼン段階で二つの相反するクライアントを同時に気持ちよく騙し、自分を初代校長に任命させなければならなかった。
バレてはいけない嘘もついたにちがいない。
だから内情を誰にも明かさなかったのだ。
はたして彼は、十分な資金こそ得られなかったものの、プレゼンには大成功をおさめ、旧美術大学の建物をバウハウスの本校として使用してよいというお墨付きを得た。
お堅い国の大学機関ではなく、自由な空気と若者の熱気に満ちた芸術学校としての活動をスタートできた裏には、グロピウスの二枚舌があったのだ。

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1925年着工のグロピウス設計によるバウハウス校舎(デッサウ校)のアトリエ館。
ワイマール時代に倣って「プレラーハウス」と呼ばれ、学生用のアトリエ兼居室として使用された。
基礎階層が浴室、更衣室、体操室、そして食堂につづく1階が調理室、2階から4階までが計28室からなる住居兼アトリエとなっていたそうだ。

© Yvonne Tenschert, 2012

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オープンに突き出たテラスが装飾的効果を高めている。

unknown © Bauhaus Dessau Foundation

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デッサウでは校舎の建築と並行して「親方の家」(マイスターハウス)も建てられた。
グロピウス自身の設計により自宅(写真)1軒と、当時としては画期的な2世帯住宅3軒(モホイ=ノディとファイニンガー、ムッフェとシュレンマー、カンディンスキーとクレー用に)が校舎近くに建設された。
現在のグロピウス邸は見学ツアーの目玉だ

© Christoph Petras, 2011

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これも1925年にグロピウス自らが設計したバウハウス校舎内の校長室。
建築デザインとしてだけでなく、空間の構成、インテリアデザイン、部屋の色使いなどこの部屋を構成するあらゆるものがモダニズムのルーツになったと言われる。

© Getty Images

現実と夢の結合がモダニズムを生んだ

別の視点から資料を読みこんでいくと、バウハウスの短い14年間は、戦後日本の若者文化を牽引したVANの時代に似ていることに気づく。

1960年代に石津謙介というカリズマのもとで日本男児の服装に革命をもたらしたVANヂャケット。
その隆盛期は「みゆき族」が生まれた1964年から倒産する3年前=1975年までのわずか12年間だ。
その間、石津謙介は、注文服の市場にアイビーという武器を持って殴り込みをかけ、注文服だけでなく、それまでカッコ悪かった既製服の概念さえくつがえし、「洋服」の領域を越えて若者のライフスタイルを創り出す意識革命に成功した。
当初の石津の狙いは、ハイソサエティの人たちしか知り得なかったアメリカ東海岸の服飾文化をいかに自分らなりに咀嚼し、日本の大衆市場に根づかせるか、という一点に絞られていた。

グロピウスの狙いもそれに近い。
後年彼は自著のなかでこう述懐している。
「バウハウスの工房で与えられる工人技能教育は、それ自体が目的でなく、教育の一手段でありました。
その目的は、材料と仕事の段取りについての深い知識によって、デザイナーたちが興行的な大量生産のためのモデルをつくり出せるように仕向けることになったのです。
そういうモデルを、バウハウスではただデザインするだけでなく、製作もしたのであります」。
技術的な質が高く、文化的な意義もある優れたデザインの建物やプロダクツを「工人」の技能とセンスによって大量生産しようとした。
彼は、バウハウスを通じて「プロダクツ」に対する意識革命をはかろうとしたのだ。

二枚舌の男は現実と夢の結合が巧い。
グロピウスは、工芸学校と美術大学が合体したメリットを最大限に生かした教育を推しすすめた。
彼はそれを「工房教育」と言っている。
技術を教える「手工親方」と、造形の形式原理を教える「自由親方」という二種の異なるマイスターをそれぞれのクラスごとに起用し、陶器工房、印刷工房、織物工房、造本工房、石彫工房、木彫工房、ガラス画工房、壁画工房、家具工房、金属工房、舞台工房などを設けた。
なかでも自身の専門分野である建築の教育には、「工」(現実)の面からも「美」(夢)の面からも最も力をそそぎこんだ。

彼の建築家としての狙いは、それまで長年研究してきたプレファブ住宅の可能性を探ることに尽きた。
ワイマールからデッサウに移動し、バウハウスが造形大学になった直後から、その実験は加速度を増してゆく。
教師たちの住居として建てた「親方の家」、さらにはデッサウ郊外のテルテン村に建てた集合住宅「テルテン・ジードルング」によって彼は、一生飽きがこない優れた機能美をもつプレファブ住宅の実用性を世に問うた。
鉄、ガラス、コンクリートといった工業マテリアルを生かして建てられたこれらの住宅によって、建築の世界に「モダニズム」とよばれる意識が芽生えたのである。

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グロピウスとコルビュジェは互いの才能を認め合った仲だった。
グロピウスはバウハウス初期から、画家コルビュジェがデザインする「詩的な美しさ」をもつ住宅に注目していた。

テルテン・ジードルングで実験した魔法の壁素材

「柱と梁だけで建てる方法だけにしばられ、そしてそれが無能な人びとによって法則として用いられていたとするならば、結果は単調きわまるものとなるに違いありません。

技術の進歩は、われわれにもっと想像力をかきたてる他の構成要素ももたらしました。
彎曲した面、すべての圧縮力と引張力を連続的に吸収し、最も少ない材料で最も高度の性能を約束するシェルであります。
この最新の発展も、ひとつの簡略化のプロセスであり、屋根が建物そのものになり、多面的に使える空間を包み、他のすべてはフレキシブルな付属品になるかもしれないのであります」
(グロピウス著『建築はどうあるべきか デモクラシーのアポロン』(筑摩書房)より)。

テルテン・ジードルングを建てるうえで、グロピウスが注目した壁材がある。
それがガスコンクリート(気泡コンクリート/現在「ALC」と呼ばれる軽量気泡コンクリートの原型)だった。
バウハウス財団の所長代理を務め、「建築研究及び記念建造物保護学術研究員」でもあるモニカ・マークグラフ女史はこう語る。
「様々な建築材料を用いて行われた実験において、建材は以下の条件を満たすことが目標でした。
より早く建築できるように、大きなエレメントであること。
サイズは大きくなるが、職人が容易に設置できる軽さであること。
断熱性があること。
これらの条件を満たす材料の一つがガスコンクリートでした。
ガスコンクリートは、アルミニウム粉末などの発泡剤により、細かな穴のあいた構造になっていますが、テルテン・ジードリング建設の際に使用されたプレートは23.5×6×52cmの大きさとなっており、工場で製造されたものが現場まで運搬され、設置されました」。

グロピウスが注目したガスコンクリートは、一般のコンクリートの4分の1の重さながら、断熱性は10倍というものだった。
炭素が結晶化すると硬いダイヤモンドになるように、コンクリートの細胞が気泡を含むと規則正しく並んだ結晶体となり、コンクリート自体の強度が増す。
やがてこのガスコンクリートは、同じドイツ人であるヨゼフ・へーベルの手によって建材としてのパネル化に成功し、プレファブ住宅の可能性が現実のものとなった。

新しい素材開発によって「骨組構造は、大きな窓やめざましいガラスのカーテン・ウォールを用いることを可能にし、建築の重苦しい、区画された性格を、透明で『流動的』な性格に変えたのです」
(前述のグロピウス著作本より)。

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テルテン・ジードルング。1926年から1928年にかけて建てられた工業住宅で、人口が増えはじめていたこの地域の労働者階級に向けた集合住宅として開発された。現在でも住居として利用されている。

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着工中のテルテン・ジードルングの家(1927年)。
手前にガスコンクリートが並べられているのがわかる。

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同じくテルテン・ジードルングに使用されたガスコンクリート・プレートの写真(1928年)
/資料提供:旭化成ホームズ

グロピウスは、決して画一的なプレファブ住宅を建てようとしたわけではなかった。
後年、住宅の画一化を憂い、桂離宮の茶室を例に挙げてこれが私の理想なのだと語っている。
「ひけらかしのない、高貴で簡素な、そこだけの空間が」と。

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1937年、ナチスに追われるようにグロピウスはアメリカへ渡り、ハーバード大で教鞭を取りはじめた。
建築家としての名声も高め、1958年にはパンナムビルを設計している。

written by Hiro Naooka/
special thanks to Bauhaus Dessau Foundation

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HailMaryこちらのコラムはHailMary5月号に掲載されています。
※WEB掲載用に一部加筆・修正しています。

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