くらしノベーションフォーラム レポート

第2回 くらしノベーションフォーラム  2010.9.16開催

テーマ: アジアの家族と住まい 〜東京・ソウル・台北・北京の住戸プランを通して〜

講 師:篠原聡子氏
日本女子大学家政学部住居学科教授
千葉県生まれ。1981年日本女子大学家政学部住居学科卒。1983年同大大学院終了。 香山アトリエを経て、1986年 空間研究所設立。
研究分野は建築設計・住居計画。著書は「変わる家族と変わる住まい−〈自在家族〉のための住まい論」(共著、彰国社)「住まいの境界を読む 人・場・建築のフィールドノート」(彰国社)など多数。主な住宅作品はスペラール砧(2003年度グッドデザイン賞建築・環境部門受賞)、赤羽台団地(B-1工区建替工事)など。

はじめに─アジアの家族と住まい

最近ソウル、台北、北京の住戸を個人と社会をつなぐ「中間集団」をテーマに調査しています。「中間集団」というのは社会学の用語ですが、家族は普遍的な中間集団のひとつだと思います。『変わる家族と変わる住まい』という本を書いた際に、どうやって新しい家族を受容するような住まいのあり方が可能か、というテーマを掲げました。「集まって住む」ということを考えたとき、様々な選択肢がふえても家族と言うのは非常に重要な社会関係資本ではあり続けるだろうと思っています。その一方で、子供の虐待や高齢の親がどこに行ったか、生き死にもわからないと言ったような悲惨な日本の状況を目の当たりにしますと、従来からの「家族と住まい」という形が日本においては危機的状況にあるとも言えるわけです。私は建築家として、近隣諸国の状況を見て歩いて調べ、その中から日本の家族と住まいの関係を相対的に考えて、わたしたちの住まいにフィードバック出来る視点をみつけたいと思っています。
日本と中国、韓国、台湾の合計特殊出生率や世帯人数のデータを見ると、現在ではどの国も少子高齢化問題を共有しています。子供の数が減る、高齢化する、女性の就業率、離婚率が高まるという状況は共通しています。ところが、少子化に移行した時期に差があり、日本では、住宅が量産されはじめた1960年代には、すでに子供2人が定着していたのに対し、他の東アジア諸国で住宅の大量供給が行われたのは70〜80年代にかけてが中心であり、この頃はまだ子供の数は3人〜4人でした。この時期の家族構成が標準的な集合住宅ストックの規模と形に深くかかわったと考えています。

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日本・韓国・台湾における集合住宅プランの違い

日本では1955年に日本住宅公団が発足し、1960年くらいから千里や多摩、高蔵寺といった大規模ニュータウンの開発が始まるわけですが、この時期既に日本の家族は夫婦と子ども2人の4人家族がスタンダードで、集合住宅では2DK〜3LDKのスタイルが大量に供給されました。日本のプランは、多くの場合、外廊下型で北側に玄関があり、廊下の一番奥にリビングがあります。
一方、韓国でも大韓住宅営団から大韓住宅公社に移行し、80年代以降大量に住宅供給を行なっていますが、当時は長男と一緒に住むことが一般的で、集合住宅の間取りも三世代同居が前提となっています。階段室型でリビングとダイニングの間に直接入るプランです。台湾の公的住宅供給の当初の主流は軍人とその家族のためであり、一般向けの住宅の供給は民間主導で行なわれました。しかし、そのいずれも、台湾のプランはアクセスが特徴的で、南側のバルコニーからリビング(=客庁)に直接入るプランが標準的です。
これらを比較してみますと、日本のリビングは家族中心で奥の方にあり、親しい人でないと通さないスペースなのに対し、韓国や台湾では入口に近い。日本では人が集まる場として集合住宅の共用施設がありますが、韓国や台湾ではそういうものがなく、住宅そのものが人の集まる場として機能しています。韓国の団地でインタビューをお願いしたら、リビングに20人近くの主婦を集めてくれたこともありますし、学生のホームステイの受け入れも日本では苦労するのに台湾ではわりにスムースに多くの学生が受け入れてもらえます。社会に対しての住宅のあり方が日本よりまだ開かれているという印象があります。

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