
山奥に潜む名旅館
薄川の上流の渓谷、自然の懐のいちばん奥まで導かれる往路では、初めて行く方はどこまで連れていかれるものか、未知の旅路に驚き、黙り込んでしまうかもしれません。不安のままようやく視界が開け、到着してみると、お宿は洗練された雰囲気で、すべてが期待以上。そのギャップにまた驚くはずです。本当に何もない山奥の温泉に1931年に開業した名旅館。この、大自然に抱かれる心持ちと居心地の良い空間は、他ではなかなか味わえないと思います。「扉温泉 明神館」の特長の一つでもある立ち湯のお風呂「雪月花」は、渓谷に向けてお風呂がせり出して、湯船の先端の縁は景色に溶け込んで森と一体化しているように見え、その奥まで進むと標高1050mの露天の爽やかな空気に包まれます。夜の照明は仄暗く、湯船では人影はシルエットになり、人目が気になることはありません。しかし、灯りが必要な場所には的確に光りが届いています。視線が抜ける大きな開口部は自然の神々しい暗闇が広がっていますが、左右の壁は照明で照られているので、視覚的には心地良い明るさを感じつつ、夜の森の闇を楽しむことができるのです。
少しの照明で時を過ごす
館内のインテリアは素朴ながら上質感があり、最先端なデザインではありませんが、周辺環境と調和した独得の心地良さがあります。照明も奇抜さはなく、床面が黒に近い深い色調で仕上げられ、光の反射が抑えられて落ち着いた雰囲気をつくりだしています。外を散策しても周囲は森の木々だけで、賑やかな温泉街はなくて、このお宿の建物しかありません。身も心も深い森の中にあって、何もない時間を過ごすためのお宿なのです。この代え難い時間をいつかまた経験したい。私もそう思うことがあります。
「楽園のあかり」が、みなさんの暮らしの灯りを考え直すきっかけになりますように。


三好和義
みよし・かずよし ● 1958年徳島生まれ。85年初めての写真集「RAKUEN」で木村伊兵衛賞を受賞。以降「楽園」をテーマにタヒチ、モルディブ、ハワイをはじめ世界各地で撮影。その後も南国だけでなくサハラ、ヒマラヤ、チベットなどにも「楽園」を求めて撮影。その多くは写真集として発表。近年は伊勢神宮、屋久島、仏像など日本での撮影も多い。近著は『死ぬまでに絶対行きたい楽園リゾート』(PHP)。日本の世界遺産を撮った作品は国際交流基金により世界中を巡回中。
ご紹介頂いた宿 : 明神館
長野県松本市入山辺8967 tel. 0263-31-2301 http://www.tobira-group.com/myojinkan/
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