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暮らしのコツ

── 就寝分離。大人と子どもは寝る空間は分けたほうが良いとか、性別で分けたほうが良いという考え方ですね。

 戦後の住まいとして、ここでは住宅公団の手掛けた集合住宅の住戸を例に挙げておこう。これらの戦後の住まいは"公私室型住宅"とか"L+nB"(ただし、nは家族数から一名分を引いた数)と称されることがある。この公私室型住宅とは、住まいが家族の共有する部屋(公室)と各個人の専用の部屋(私室)からなるものを指している。
 具体的には、公室とは居間を意味し、私室は家族個々人の個室を指している。L+nBも同様で、Lは居間、Bは個室としてのベッドルームを指している。また、このnは家族数から一名分を引いた数となるが、これは明らかに夫婦が一つのベッドルームを一緒に使うことを意味し、核家族を基本としていたことことから、子どもはそれぞれ独立した個室を持つことを示していた。
(『「間取り」で楽しむ住宅読本』より。P.206-207)

内田さん 戦後は生活の場としての食べる空間と眠る空間をどう確保するかが出発点でしたから、食寝分離(食べる場所と眠る場所を分ける)、就寝分離は戦後住宅の考え方の根幹、そこから戦後の住宅の議論が始まり、現在に至っているわけです。日本特有のLDKスタイルが登場した理由も食寝分離、就寝分離の実現のためです。

3LDKの間取り/『「間取り」で楽しむ住宅読本』P.207より戦後の住まいとして住宅公団(現・UR都市機構)が手掛けた住戸のプラン

鍛治さん 眠る場所としての「寝室」の概念が生まれたのは、西洋化が採り入れられる明治以降なんですね。確かにかつての日本人の眠りは「空間」ではなく「道具」を拠り所としてましたから。

内田さん そうですね。例えば、平安時代に出てくる置き畳は身分の高い人が座るための場でもあり、そのまま眠る場でもあった。かつて畳は眠るための装置でもあったわけです。それが室町時代になって家の居室に畳が敷き込まれるようになると、極端なことを言えばどこでも眠る場所になった。日本の住宅はすべてが寝室だと言えないこともない。竪穴式住居では土間に一段高い床をつくり、そこが眠る場所でした。その床が高床になり、床に上がる日本の暮らしにつながるわけですが、極論すると、日本では眠るための「床」の上ですべての生活が行われていたとも言えるでしょう。

日本の家屋ではどこでも床に同じように敷き物が敷かれており、どの部屋もそのまま寝室になり得る。季節や気候や気まぐれによって、ふとんを広げるのに最も気の向いた場所を、いざ寝る時になって選べばよいわけである。この選択の自由さに比べて、西欧の寝室はかたくなにあるスタイルを守っている。快楽を追求してやまないフランクリン(編集注:アメリカの政治家で物理学者、気象学者のベンジャミン・フランクリンのこと。凧を使った実験でカミナリが電気であることを明らかにしたことで有名)なら、夜の生活に様々な変化を持ち込んでいた日本人に対し、賞賛を与えたであろうことは疑いもない。彼自身、夜の単調さから逃れるためにあちこちと渡り歩いて眠ったものだが、それは四つのベッドを次々と頻繁に移り変わることであった。「非常に大きなベッドで」と、彼は『楽しい夢を得るための技術』と題するエッセイのなかで述べている。「それが移動可能なものならば、涼しく心地良く眠れるように、ベッドをもとあった場所からなるべく離すようにしたら、ある程度は同様の目的にかなうことができるだろう。」 (『さあ横になって食べよう 忘れられた生活様式』。バーナード・ルドフスキー著、
多田道太郎監修、奥野卓司訳、1985年、鹿島出版会刊)

鍛治さん 先生が書かれた「『間取り』で楽しむ住宅読本」でもE. S.モース*¹の著書「日本のすまい 内と外」からの引用がありますが、彼は、日本の旅人は旅枕さえ持っていけば、旅先には必ず「畳」というベッドがあるので、そこに持参の枕を置くとそこが寝室になる。ベッドごと旅をしていると語っていたのが印象的なんですよ。

「このような枕を使っている日本人は、文字どおり寝床を提げて歩くことができる。なぜなら、そのような手回り品を収納した枕があれば、日本人は困らないからである」。  これは、今からおよそ一二〇年前、明治時代の日本に学者として、教育者として来日し、大森貝塚の発見で広く知られることになったエドワード・モースの言葉、彼が当時の日本人の生活ぶりをとらえて書いた「日本人の住まい」の中の一節である。 (「寝床術」。睡眠文化研究所編集。2005年 ポプラ社刊)

内田さん 眠りの場も自由だし、風俗習慣だってモースが来日した時代はまだ大らかだったと思うんですよ。おそらく私たちがタブー視する寝室のセクシャルな問題も、かつての日本ではとてもオープンでした。お風呂だって混浴が当たり前で、風呂屋には風呂上がりにお酒が飲める空間があった。日本人は性に対して非常に大らかで開放的だったのに、西洋人と西洋文化が入ってくるとともに、西洋的な規範から、性はプライバシーの一部であると秘め事にされてしまう。当時の日本人の立場から言えば、当たり前だったものが外圧で歪められたわけで、それが未だにうまく整理できていないのかも知れません。

鍛治さん 日本人には見えていても見えないこととする、聞こえないこととする不文律というか、独得の精神の働きがあったわけですからね。

内田さん かつては、そうした意識のコントロールが自在にできたのでしょう。

鍛治さん 一つの空間を昼間は居間で夜は寝室にするという切り替えも、そうした意識のコントロールと無関係ではないと思います。

内田さん そうですね。西洋的の考え方は、寝室も食堂も客間も、部屋には必ず用途と機能があるというもの。逆に言えば、そうした用途や機能に応じて部屋が用意されていました。食堂と寝室が同じ空間では、機能を十分に満たした空間とは言えず、不都合なわけですね。食堂には食堂にふさわしい環境があり、それにふさわしい家具があった。寝室にも寝室用の家具がある。彼らにとっては空間でも家具でも機能を追求することが「デザイン」で、それが近代デザインの出発点でした。西洋の住宅では暖炉は部屋ごとに形が違うことがありますが、それは単に意匠の遊びではなくて、部屋に与えられた用途に応えた形が与えられていたわけです。一方、日本は「見える、聞こえる」意識をコントロールすることで、わずかな道具を入れ替えるだけで、空間が同じでも違う機能の場と解釈して使いこなすことができた。そんな日本人の暮らし方は、一部の西洋人の目には未分化で酷い生活と映ったのでしょう。誰もがモースのように、異文化理解の姿勢で受け止めていたわけではなかったようですから。

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── 同じ「住宅」でも日本では西洋と違う進化を遂げていたわけですね。

内田さん それでも、かつてはワンルームだった竪穴式住居から、間仕切りができて空間が分化され部屋が生まれ、巨視的に見ると日本も一つの空間が分化しながら、機能に応じて間取りが細分化されてきたのは同じでしょう。ただ、日本の住空間は連続した空間で、二つの空間を一つの広間として使ったりしてましたから、一部屋一機能の概念は希薄で、空間を臨機応変に使う考え方も根強く残り今に至っています。これが日本的な住まいの特長になっていて、「寝室」も臨機応変の中で捉えられてきたわけです。

鍛治さん 眠りの専用空間をつくることが西洋の考え方で、いわば輸入の思想だったわけですが、それと同時期の明治時代に──これは先生の本を読んで初めて知ったのですが、睡眠を科学的に解釈して「眠りのための空間」を考えていた研究者もいたことに驚きました。通風や採光についても言及されていますね。

科学的な観点から睡眠の重要性が認識されるに従い、独立した清潔な寝室の確保が主張され始めるのは一九〇〇年頃からである。
 こうした記事の走りのひとつが一八九八(明治三一)年の「眠りのこと」(天心生『日本の家庭』2巻6号)で、睡眠時間は通常八時間がよく、寝室は従来の狭くて天井の低い部屋はやめて広くて通風もよいところにすべきことが主張されているし、また、一九〇一(明治三四)年の板垣退助(1837-1919)の「衣食住の改良」(『女文学界』1巻11号)では、日本間の生活は体が軟弱になるために寝室を洋風に改めるべきであることが主張された。 (『「間取り」で楽しむ住宅読本』より。P.161)

内田さん 当時の日本の住宅は隙間だらけだったと思うので、狭くても通風や採光は家が勝手にやってくれていたと思うんですよ。でも明治の文献を読むと、寝室は空間が小さ過ぎると空気が滞留して、自分がはき出した悪い呼気で淀むので健康に良くないと、寝室にそれなりのボリュームを求める設計者もいました。湿気や採光も考えると2階が良いという議論も出てくる。実はこれらも欧米の健康・衛生思想を日本に導入した「輸入品」の考え方でした。

鍛治さん なるほど。いずれにしても西洋からの影響だったんですね。面白いなと思ったのは、この時代に、既に睡眠時間は8時間が適当であると書かれていますよね。

内田さん 睡眠時間については大正期にもよく語られていますね。睡眠時間一日8時間は人生の三分の一。住宅の中でいちばん過ごす時間が長いのは寝室で、だからこそ看過できないと、これも寝室が重要であるという論拠の一つになりました。
 1905年に英語教師として来日した建築家のM. W. ヴォーリズ*²は、後に京都に自分の設計事務所を設立するのですが、彼は住宅でいちばん大切なのは台所で第二は寝室であると書いています。この二つの空間があれば人は生きていける。彼もまた睡眠は8時間は確保すべきと主張していました。ただしヴォーリズは寝室の広さには頓着していなくて、結婚後、すぐに建てた軽井沢の別荘「ヴォーリズ山荘(九尺二間の山荘)」*³は、延べ面積はわずか10坪程度、寝室もコンパクトで二段ベッドが採用されていました。彼は避暑地の別荘には見せびらかすような建物よりも質素な建物を求め、台所と、あとは食堂や応接を兼ねた居間があれば十分だと語っています。

鍛治さん なんだか現代の住まいにも通じますね。

内田さん そうですね。いわば竪穴式住居の空間に近いのかもしれない。お互いの気配が感じられるワンルームの一室空間というのは、住宅の一つの理想型なのでしょう。

── 近代以降の寝室と眠りの場を巡る対談の続きは、次回をお楽しみに。

*1 エドワード・シルヴェスター・モース

Edward Sylvester Morse、1838~1925年。アメリカ・メイン州出身の動物学者。博物学者。標本採集のために来日。東京大学教授を2年務め、東京大学の社会的・国際的姿勢の確立に尽力した。日本滞在中に大森貝塚を発掘。日本の民具や陶磁器の収集でも知られる。著書に『日本その日その日(Japan Day by Day, 1917)』(石川欣一訳、1970年、平凡社東洋文庫全3缶)、『日本のすまい・内と外(Japanese Homes and Their Surroundings,1885)』(上田篤ほか訳、1979年、鹿島出版会刊)

*2 ウイリアム・メレル・ヴォーリズ、一柳米来留(ひとつやなぎめれる)

William Merrell Vories、1880~1964年。
建築家、宗教家、実業家。アメリカ・カンザス州生まれ。英語教師として来日後、1908年に京都に建築設計監督事務所を設立、日本各地で西洋建築の設計を数多く手懸けた。1941年に日本に帰化してからは、華族の一柳末徳子爵の令嬢満喜子夫人の姓をとって一柳米来留(ひとつやなぎ めれる)と名乗った。ヴォーリズ合名会社(のちの近江兄弟社)の創立者の一人で、アメリカの塗り薬メンソレータム(現メンターム)を日本に普及させた実業家でもある。日本各地でキリスト教会や学校の設計を手掛けた。作品は、明治学院大学礼拝堂(1916年)、大丸心斎橋店(1922~33年)、山の上ホテル(旧佐藤新興生活館、1936年)など。

*3 「九尺二間の山荘(旧ヴォーリズ山荘)」長野県軽井沢町

竣工:1920年、構造と規模:木造平家建て、延床面積:33㎡
九尺二間(くしゃくにけん)とは粗末な家を意味する言葉。およそ10坪の中に居間兼食堂、二段ベッドの寝室、台所、収納、バスルームなどが備えられている。この山荘は後に画家浮田克躬の手に渡り、「浮田山荘」として現存。軽井沢にはヴォーリズ設計の建物が今も約40棟残っている。

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